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『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』 (11)大坂

 

(11) 大坂-竹林寺に小童の墓も

「大阪に朝鮮通信使の碑があります」と長年、お付き合いのある方から、メールが入った。説明文を読んでいて、西区にある、産経新聞社提唱で始まった大阪の史跡顕彰運動の一環であることを思い出した。間違いないであろう。竹林寺には小童(高官の世話をする独身男性)ながら異郷で帰らぬ人となった金漢重(キム・ハンジュン)の墓がある。
 金漢重は1764(宝暦14)年来日するも、途中、玄界灘、瀬戸内海の荒波で、身体を痛める。大坂に着くと、天満の漢方医などが通信使船に駆けつけて診察した。しかし、病重く、竹林寺に移して看病する。床にある金漢重は、故郷の子に思いを馳せた。子は二人いた。
 これを知った人々は、年恰好のよく似た二人を街中から探し出し、金漢重の側に座らせた。子供を見て微笑む金漢重を見て、「子を思う心の内おしはかられ、いと哀れなり」(『宝暦物語』)と、人々は胸をあつくした。
 死期が近づいた金漢重は、辞世の句を残す。

「今春倭国客 去年韓人中 浮世何定処 可帰古地春」

 金岷江 行年二十二齢書

 竹林寺の住職は、彼のために念仏百万回唱えたという。しかし、その甲斐もなく、金漢重は世を去った。住職らの所作は、通信使の心に響いたのであろう。境内に墓を建てることを許している。建立した墓碑の左側面に、前の辞世の句、それに住職の和歌も刻まれている。その和歌は、次の通り。

「日の本に 消えにし露の 玉ぞとは 知らで新羅の 人や待つらむ」

 最近では、竹林寺もコースに入ったウオーキングを兼ねた歴史探訪会が、大阪の街中でも行われている。次のような行程となっている。 
 地下鉄・千日前線の「西長堀駅」から、△土佐稲荷神社、△松島遊郭跡、△朝鮮通信使に墓がある竹林寺、さらに△川口外国人居留地跡、△大阪城周辺

 朝鮮通信使のからみでいえば、大阪の町人学者、富商に興味がある。元禄文化に置き換えてもいい。都市の規模では江戸に負ける大坂は、商品経済に染まって、商いの街にとどまらず、近代へ通じる思想を生み出す。司馬遼太郎は『この国のかたち 3』(文藝春秋、1992年刊)に、こう書いている。
「商品経済の思想とは、モノを観念でみずにモノとしてみる考え方である。モノには、質と量がある。質と量でモノを見、学問や思想までをそのように見直すところから近代がはじまる」「日本の近代は明治維新からはじまるとされるが、18世紀の大坂にはすでに近代の萌芽があった」
 今度、大阪に行くときには、緒方洪庵の適塾、富永仲基の懐徳堂など、江戸思想の磁場となった史跡を訪ねてみたい。商都の町人文化に、通信使の高官も驚いている。

【ユネスコ世界の記憶】
・正徳度朝鮮通信使行列図巻/・天和度朝鮮通信使登城行列図屏風/・正徳度朝鮮通信使国書先導船図屏風/・正徳度朝鮮通信使上々官第三船図供船図/・朝鮮通信使御楼船図屏風/・朝鮮通信使小童図/・釜山浦富士図/・蒲相八景図巻/・寿老人図/・松下虎図/・任統詩書=所蔵は、いずれも大阪歴史博物館

 

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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