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『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』 (10)兵庫

 

(10) 兵庫-日宋貿易の拠点、大輪田泊

 兵庫大仏の写真が出て来た。像高11m、台座を含めると18m。石段の上にそそり立っている。平清盛全盛期の名残を伝える大仏である。日宋貿易の拠点として大輪田泊を重要視した清盛は、福原遷都計画を画策した。公家勢力を一掃する狙いがあった。
 案内してくれた神戸の装丁家は、JR兵庫駅から海岸線へと向かう道々で、解説してくれる。この一帯(兵庫津という)は、名主・惣代という町方によって運営されていたという。大きな商家が、昔の栄華を物語るように立っている。
 兵庫港は、かつて瀬戸内海の重要な海駅として知られる。江戸幕府の直轄地にもなった。朝鮮通信使はもちろん、江戸へ向かうオランダ商館長の一行、薩摩の島津に引率された琉球使節も寄港した。彼らが泊まったのは商人の家で、その規模は大きく華麗であったと賛嘆している。
 海岸に向かう途中、橋を渡ったが、重厚な作りで堅牢にして、威厳がある。商人たちの町づくりを受け継ぐ兵庫区の意気込みを感じた。平清盛の「福原遷都」は幻のようであったが、その名残は其処ここに見られる。

 海岸に出て、山手、六甲連山の方へ目をやっていると、「昼は風情がありません。暗くなると、ここからも夜景が綺麗なはずです」と装丁家がいう。 
 兵庫運河と呼ばれる海岸端に、兵庫港の歴史を伝える案内板がないが、ここは江戸時代、明石藩が治めていた。各藩がリレーで世話をした朝鮮通信使を迎える光景は、評判となった。室津を出発した通信使船は大小千隻余りの船に守られて、夜、兵庫港に入港する。各船には燈明が灯され、海上は赤々としている。これを見ようと、海岸線はもとより、小型の見物船も浮かび、港町はお祭り騒ぎである。

 通信使寄港の折、摂津の儒学者・文人などが通信使高官の宿泊先に押し寄せ、筆談で話をし、漢詩文を交換した。 
 商家に泊まらず、船にとどまった通信使(1719年)の製述官・申維翰は、湾岸で楽手の音色に合わせて、二人の童子に対舞させているが、これを見ようと「群倭(日本人)が雲の如く集まった」と日本紀行文に記している。
 この対舞を真似て、祭礼に取り入れたのが牛窓(岡山県瀬戸内市)で、地元の厄神社に奉納する唐子踊りである。牛窓に対舞が伝わる限りは、牛窓の人が群倭の中の混じっていたのであろう。

 

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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