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都会生活の中で見出す自然と心の風景


 

都会生活の中で見出す自然と心の風景

 東京という都会に住んでから、もう半世紀近くなる。そのぐらいの時間がたてば、東京が第二の故郷といってもいいかもしれないが、感覚的にはまだどこか仮の場所に住んでいるという印象が抜けない。

 住んでいるという実感がないからかもしれない。ただ、そこで生活し、日々、会社とアパートの往復するだけ。そこには、リアルな生活の実感がなく、人とのつながりがないということ、仕事としての人間関係はあるが、個人的な交流があまりに少ないということ、などがある。

 いわば、東京暮らしは観念的でどこか抽象的な生活である。田舎にいたときのような地域の人々との交流も、四季折々の自然の移り変わりもほとんどないので、自分が成長しているのか、停滞しているのか、あるいは家族関係の中で喜怒哀楽を覚えているのか、何もわからない。

 今日が終われば、明日は同じような日が始まり、そして、それが毎日続くというイメージがある。この抽象的な日常の中に住んでいると、少しずつ自分の中の精神が病んでいくような感じさえする。

 ちょうど、大海の空間的な広がりの中で、船が停泊のために島の港に錨を投じているような寂しさとむなしさ、頼りなさを感じるといっていいかもしれない。

 果たして、われわれはどこへ行こうとしているのか、何のために生きているのか、そうした人間の実存的な不安、それが時々、襲ってくる。この孤独感や空虚感は、人間関係が希薄で、自分自身の生きているという手ごたえや実感がないことから来るものだろう。

 かつて田舎に住んでいた時の時間の経過と今の時間の経過が同じ物理的な時間でありながら、その実感がずいぶん違っているという印象を持つことがある。

 それはなぜだろう。確かに、年齢とともに、若いときに比べて、年老いると、毎日があっという間に終わってしまうという印象を受ける。

 時間が少なくなっているという感覚、時間の経過が速いという感覚、これはもちろん、老いによるものもあるだろうが、その背景には、自然と隔離されているという現代人の抽象的な生活があるかもしれない。

 自然の移り変わりは、花や植物などの生き物によって感じられ、また春夏秋冬の気温の変化はわれわれの皮膚感覚として肌寒さや温かさで感覚的に理解するものだが、都会に住んでいると、自然とも隔離され、四季の移り変わりもその微妙な変化がわからなくなっていく。

 食べる物も、春夏秋冬の関係なく、ほぼ一年中、手に入れることができる。もはや季節感は、家と会社の往復の中で、感じるものといっていいかもしれない。会社では、暑ければクーラーをつけ快適な温度に設定し、家でも同じように家電製品で生活を快適にするようにしている。

 確かに文明の利器によって、快適な生活は得られたけれど、そこには、自然とのふれあいや季節感を感じることがあまりなくなっているのである。

 要するに、生活にメリハリがなくなり、新しい刺激や発見がない抽象的な生活になってしまっている。そこには、生きていくという肉体的な生命の維持と継続しか生活の中で感じることができないのである。

 こうした過度に文明化された生活は、人間の自然な成長過程のバランスを崩し、精神的な成熟や成長を狂わせるといっていいのではないか。

 現在、社会で起きている様々な事件や出来事を見ると、そこには、この自然とのバランスを欠いた人間の心の悲鳴が聞こえてくる感じがする。

 大人のような子供、子供のような大人、老人らしくない老人などなど、人間の自然のプロセスを経ての成長ではなく、どこか人工的で機械的な精神のゆがみが、そこには感じられるといっていい。

 精神のバランスを欠けば、その反動が思いがけない行動につながったりする。現在の社会の犯罪や事件には、そうした人間の本来の姿から逸脱したものがあるのではないか。

 とはいえ、このような現代人の生活は文明化や快適な生活を求める人間自身の欲望から来ているので、それを全面的に否定し、「自然帰れ」などという極端なことを言うつもりはない。自然とともに生活するということは、科学文明を否定し、原始に帰ることを意味するのではないのである。

 極端なナチュラリストになる必要もなければ、家電を使わないエコの生活を推奨するつもりもない。要するに、極端な生活は、やはり別な意味での抽象的な生活ということになるのではないかと思う。

 たとえば、理想主義的な社会主義生活を目指した共産主義は、その極端な理想を実現するために、暴力や粛清を肯定し、そこに恐ろしい管理社会を作り出し、人間がモノと同じようにぞんざいに扱い、快適で幸福な生活という理想とは真逆の社会を出現させている。

 理想を実現するために、他を犠牲にすることを厭わない。しかも、それを人の生命を奪うことで実現しようとする。

 これは悲劇といっていい思想であり、その未来には、本当の意味での幸福や喜びがあるとは思えない。奪い破壊するのではなく、自然と調和しながら生活すること、そこに未来の希望がある。

 その意味で、自然との調和した生活は、どのようなものになるのかは、それぞれの人の生い立ちや環境の違い、年齢の違いによっても、違うだろうが、基本的には、身近にある自然万物を愛し、鑑賞し、感謝し、喜ぶということだろうと思う。

 現代社会では、自然を感じることやふれる機会は少ないが、しかし、まったく自然が無くなったわけでもないし、生き物や昆虫に接する機会が無くなったわけではない。

 都会には、都会生活なりの自然とのふれあいを感じることができる。公園の植物や生き物、個人の家庭の庭に咲いている花、犬や猫たちの生き物、そうしたささやかなふれあいが、心を開いて接すること、それだけでも、気持ちが変わって来る。

 その出会いは、四季折々で違っている。同じように見えながら、生きているものは、少しずつ変化していく。毎日、同じようでありながら、そこに観察や感情をはたらかせていけば、多くの発見がある。

 日々、発見であり、日々喜びである。そういう生活は心の世界を変えていけば、可能なのである。

 また、会社だけの関係ではなく、趣味を同じくする人や地域のコミュニティーに参加したり、プライベートな人間関係を深める機会をつくっていく。それだけで、自分の中に感覚として流れる時間が、ぐっと変わってくるのではないだろうか。

 孤独死というものが増えているが、これを社会問題という福祉や介護などインフラの問題にするだけではなく、個々人の生きがいや人生の目的、自然とのふれあいなどを深めることで解決できる道があるのではないか。

 人間にとって大切なのは物質的な幸福だけで得られるのではなく、そこに愛する家族や親せきが存在すること、生まれ育った故郷などの自然がわれわれの命の本当の糧であることを悟れば、もう少し、平和で穏やかに、そして、感謝に満ちた生活をすることができるのではないだろうか。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)


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