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続・母親の存在と新時代をもたらす宗教

 

 現代人は、特に日本人は宗教というものが、世界において、政治を動かすパワーとなり、戦争の原因の一つとなっていることをなかなか理解できない。

 科学が発達しているアメリカやヨーロッパがなぜキリスト教を信仰している風土があるのか、また中東のイスラム教国家が今なお西洋と対立し、イスラエルと戦争状態にあるのか、その根源にあるものを理解できない。

 もちろん、戦争のプロセスやその経過、歴史は学ぶことによって宗教という概念を知的にはある程度理解できるが、それによってなぜ血を流す戦争を始めているのか、止められないのか、そのことを根本的に理解することはなかなかできない。

 というのも、日本においては、宗教戦争というものは、幾度かあっても(仏教を奉じた蘇我氏と神道を奉じた物部氏の争いなど)、それが尾を引いて宗教戦争が延々と続くことがないからだった。

 もちろん、当時の政治権力と対立し、弾圧された歴史はあるので、政治と宗教の対立や宗教同士の論争や紛争などがあったことは間違いない。

 だが、最終的には、対立を解消するような方向へ進み、やがて、神道と仏教が併存していったような神仏習合という世界にも例を見ない宗教風土を生み出した。

 宗教は教義的には対立しても、武器を取って戦争し相手を滅ぼすまでに対立するものではなく、対立と紛争ののちに、棲み分けをするというものだったのだ。

 これは、日本の多神教という八百万の神々を祭る精神風土が背景にあるからだといっていいかもしれないが、それだけではなく、宗教を原理主義的に絶対視して、他を排除し対立する思想が育たなかったからだともいえる。

 なぜ宗教は対立し、戦争を誘導する場合があるのか、という問いにもつながるが、それはやはり神と人間の関係が原始的な社会では、自分たちの命を維持し守ってくれる一方的な存在が神であるという概念があるからだろう。

 日々の食料をもたらす自然現象は、人間の力ではコントロールできない。それが、神という存在を原始社会においては規定条件であるために、自分たちの食料財産を守るためには、自分たちの神が戦争相手の神と戦って勝たなければならない。

 その意味では、戦争は宗教の名を借りた生存競争、そして、自分たちの財産や食料を守り、かつ相手から奪うものだったといえるだろう。

 そして、戦争で敗れても、大陸であれば逃げていくことができるので、和解や融和などはしなくてもいいという精神風土となる。

 やったらやり返す、その繰り返しが大陸文明を形作ってきた。

 だが、それは大陸という地続きの世界では当たり前であっても、日本列島のような島国においては、難しい。

 いつまでも対立していることは、限られた土地の風土では、お互いに疲弊し、共倒れにしかならない。

 ゆえに、最終的な対立を避け、どこかで妥協する風土が形成される。

 日本でもそれと同じような働きによって、歴史的には宗教対立があったとしても、どこかで互いに融和していく、あるいはそこまでいかなくても共存する道をたどる方向へいくことになる。

 それが宗教を絶対視せずに、異民族や他部族と共存が可能なものとして伝統的に受け止められてきた原因の一つではないだろうか。

 それゆえに、日本人にとっては、宗教は、たとえ違った宗教と対立しても、共存できるものと受け止められてきた。

 宗教が仏教と神道のように習合できるものとして考えて来た。

 そのために、江戸時代の宗教政策もあって、宗教は政治と対立するものではなく、むしろ政治を補完するもの、生活という現実面を政治が主管し、冠婚葬祭などの精神的な領域を宗教が補う。

 そのように考える伝統があったために、宗教がキリスト教とイスラム教の対立と戦争を生み出すようなものになるということを実感的に受け止められなかった。

 宗教を迷信だとしながらも、初詣や冠婚葬祭で宗教的行事を行うのは、それがただの習俗行為であっても、そこに残っている宗教精神があるからこそ、何の違和感もなくそれに従うのである。

 ゆえに、日本人を無神論者ということはできない。

 山本七平が日本人は強力な「日本教」の信徒であるとしたのは、その点で慧眼であるといえるだろう。

 「日本教」の信徒である日本人は、仏教や神道という宗教を排除するキリスト教の文明を受容したとき、それをキリスト教という共存(習合)できる宗教の一つとして受け止めようとしたのである。

 だが、キリスト教は、江戸時代以来、国家の基盤を崩す恐ろしい宗教として長年、禁教と弾圧の対象となっていた。

 仏教と神道のように共存し習合できるものとは思えない。

 ならば、どうするか。西洋文明の核をなすキリスト教と併存する「科学」技術をひとつの宗教的な概念として利用し、キリスト教の相対化を図り、と同時に、宗教は「非科学的な習俗信仰」であると教育の理念の中心に軸を置いた。

 宗教は科学的ではないために、迷信に過ぎない、という思い込みを日本人の中に植え付けたのである。

 日本人が世界を動かしているキリスト教やイスラム教などの宗教の本質を理解できず、科学的な先進国家が迷信をなぜ信じているのか、と頭を傾げるのは、そういった背景があるからだといっていいだろう。

 要するに、日本人は宗教とは、非科学的な迷信であり、無知な未開人や発展途上国において科学が発達していないために、自然現象を何等かの未知なる存在、それを神という存在として信仰していると考えやすいのだ。

 確かに宗教の発生や発展にはそうした面があることにはある。

 たとえば、台風や地震、気象異常による作物の不作、ペストなどの病害など、自分たちにはコントロールできないものとして、そうした理解ができないものを神がコントロールしていると考えた。

 そのために、気象異変があれば、自分たちの行いや罪としてとらえ、シャーマンなどの祭司がいけにえや犠牲をささげ、神に謝罪し、その許しを得ようとした。

 おおむね、原始宗教の多くは、このような自分たちに害を与えるものを神の権能として恐れ敬った。

 そして、自然が穏やかで、秋の豊作を迎えると、自分たちのいけにえや犠牲が神に届いて、その見返りとして豊作が神によって祝福されて与えられたと考えるようになったのである。

 日本人が無宗教というよりは、「科学」という宗教によって、仏教やキリスト教、イスラム教を捉えているために、宗教の本質を見失ってしまったといえるかもしれない。(この項続く)

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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