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伝統と継承 正岡子規と高浜虚子

 俳人の高浜虚子の俳句に、「去年今年貫く棒の如きもの」という有名な句がある。

 去年と今年の区別というものを考えたとき、それは棒のようにつながっていて、本当はそう変わらないのではないか、という達観した精神、諦念といったものがこの句にはある。

高浜虚子

 去年だろうが今年だろうが結局、時間の流れの中では同じことだということだろう。

 要するに、時間というものは、串に刺さった団子のように連続しているのに、それを「去年」や「今年」という時間区分を人間が作り出しているに過ぎないのではないか、という洞察である。

 といっても、考えてみれば、時間というものは物理的に区分できるものではないのだから、虚子が見据えた時間というのは、たんなる洞察というよりは、そこにこそ人間の生きている時間というものがあるという反語にもなっている。

 去年と今年と区別し、そこに時間の質の違いを意識することで、生きた人生の時間感覚といったものを見い出すこと、それが詩であり、芸術であるといってもいい。

 よく知られているように、虚子は、短歌と俳句に革命をもたらした正岡子規の弟子であり、後継者でもある。

正岡子規

 子規は、伝統的な詩歌観、「花鳥風月」という精神を時代遅れのマンネリズムとして排撃し、西洋文学的なリアリズム精神、ものをありのまま見つめて写生するというリアリズムを導入した。

 それは伝統的な文学観の否定であり、革新でもあったことはよく知られている。

 こうした革命的な文学観が受け入れられたのも、当時の日本が文明開化という奔流の中にあって、封建制の否定と近代主義的な国家への生まれ変わりを民族全体が目指していたからである。

 身分地位などではなく、学問や知識、そして、新しい国家体制の中で、伝統的な精神では対応できなくなって、あらゆる面において革命的な組織再編や革新が行われた運動の一環に文学もあったのである。

 その意味では、子規は革命の指導者であり、そして旗頭であった。

 革命の指導者が、新しい時代を切り開くために、旧制の指導体制を打倒し、破壊し、時には処刑という手段で否定していくことがある。

 フランス革命におけるジャコバン党による恐怖政治はその代表的なものといっていい。

 それと同じように、子規は新しいリアリズムの近代的な詩歌観を推奨するために、伝統的な詩歌観をことごとく否定し批判した。

 万葉集のようなリアリズムを持った伝統詩歌は認めるけれども、古今集や新古今和歌集のような王朝的な文学は観念的なものとして退けた。

 この子規の詩歌革新によって、われわれは基本的に古今や新古今和歌集の歌を古めかしい、観念的で、遊戯的な詩歌として考えるようになった。

 ほぼ子規以前と以後では、和歌や俳句の概念が180度変わってしまったといっていいだろう。

 なぜ古今や新古今の歌を観念的と感じるのかといえば、われわれには、その歌が応答されていた貴族文化、伝統的な文学概念を受け継いでいないからであるとも言える。

 伝統的な詩歌は、ただ単に自己の感慨や思いを表現するのではなく、その言葉の背景にある伝統的な文化、先例や風俗や先人の歌の世界を意識し、それに重ね合わせ、自己の思いを乗せて、古代の人々の精神世界と同化しながら、そこに文学的な感動と喜怒哀楽を感じていたのである。

 だから、それを受け継いだ江戸時代の俳句や歌、そして川柳には伝統的な知識や教養がなければ歌や句の本当の意味での鑑賞ができない面があった。

 マンネリズムは、その点で、詩歌を作るときに、先人の真似をするという意識があるために、どうしても避けられないものだった。

 伝統的な「花鳥風月」という風雅の精神も、過去の伝統にどれほど近づき、それを体現できるかということを示している。

 それはまた、伝統の継承と発展という問題をも含んでいる。

 要するに、歌や俳句も職人的な師匠と弟子という関係の中で、継承され発展していくということである。

 和歌にしても、俳句にしても、師匠を中心とした派閥を作り、それによって、自分たちの独自な秘伝としていた。

 そこには、個人主義的な独自の表現というものは生まれにくい。

 「花鳥風月」というひとくくりにされてしまうような時代的な制約、集団主義的な価値観によって縛られていたということもできよう。

 そうした伝統的な文学精神を子規は破壊し、新たな西洋近代文学の精神を導入したといえるだろう。

 だが、そうした伝統破壊、文学的な革命をした子規でも、個人の限界を知っていたために、自分の革新的な文学改革運動を後継者に受け継いでもらって発展してもらうように願っていた。

 ホトトギス派の継承者に子規が選んだのが高浜虚子だった。

 しかし、虚子は子規に後継者を依頼された時に、それを断っている。

 虚子は、子規の俳句革新には敬意を持っていても、それをただ自分が墨守することを望んではいなかったのだ。

 虚子は、子規の写生という方法が、伝統破壊には大きな力をもったこと認めていたが、その先には伝統と断絶した荒野、日本の伝統精神が枯渇した荒野が広がっているのではないか、という疑いを抱いていた。

 先人の文化伝統を否定してしまえば、革命が成功したとしても、それだけでは、次の未来への豊かな実り、発展がないのではないのか。

 実際、フランス革命後の状況は、無秩序と破壊、そして、伝統文化の破壊となってフランスを苦しめて来たことがある。

 伝統を否定しなくても、それを生かしながら、新しい文学表現が可能なのではないか。

 そうした思いが、虚子をして、子規の否定した「花鳥風月」という伝統的な詩歌の精神を評価し、そこから伝統と近代の架け橋を模索したといっていい。

 虚子が唱えた言葉に「花鳥風月」とまぎらわしい「花鳥諷詠」という言葉がある。

 同じような言葉に見えるが、伝統文化を墨守する「花鳥風月」に対して、「花鳥諷詠」は伝統的な自然観を大切に生かして、それから近現代的な概念によって再創造するといった意味があるように思えるのである。

 その点では、虚子は日本文化というものの中に息づいている伝統精神を再発見したと言えるかもしれない。

 「去年今年貫く棒の如きもの」という虚子の句は、こうした伝統と近代を貫く、継承と発展を象徴した句でもある。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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