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平和な治世の象徴である麒麟と明智光秀

 

 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は、戦国時代の武将・明智光秀。大河ドラマでは、様々な武将を取り上げてきたが、その中でも、明智光秀は異例といっていいだろう。

 何しろ、日本人の光秀に対するイメージは、反逆者、裏切り者、三日天下といったマイナスイメージしかないのがほとんど。

 特に戦国武将の中でも人気の高い織田信長を裏切って謀反を起こしたということで、光秀は悪人というイメージがつきまとっている。江戸時代の忠義を主体とした儒教精神からも主君に背いた大悪人というイメージがかぶせられたこともある。

 その意味で、今回の大河ドラマの主人公に選ばれたのが不思議なほどだった。

 NHKのホームページのサイトを見ると、明智光秀がなぜ主人公になったのか、そして、なぜ「麒麟」というタイトルになっているのか、なかなかわかりにくい。

 光秀像のイメージの改変を狙ったものだとしても、「麒麟」に象徴させるのは言い過ぎのような気がするからだ。

 なぜなら、「麒麟」とは、中国の空想上の霊獣で、この「麒麟」は平和な時代の象徴として登場する。

 もちろん、現実の動物園にいる首の長いキリンとは別物であることは言うまでもない。

 ちなみに、キリンは中国の明の時代の名君と言われた永楽帝が名付けたといわれている。

 永楽帝が遣わした大船団の提督・鄭和がアフリカから連れて帰った動物を見て、永楽帝が自分の治世と重ねたかどうかはわからないが、その動物に「麒麟」と名付けた。

 要するに、麒麟というのは聖なる獣で、聖天子のもとに現れるという霊獣であり、光秀と麒麟がうまくかみ合わない感じがする。

 とはいえ、麒麟は中国の歴史上でも、伝説的な存在から歴史的な記述に登場したことがある。

 それは、儒教の孔子が平和の時代に現れる麒麟が戦国乱世の時代に現れ人間に囚われて殺されてしまったという事を聞いて、嘆いたという話である。

 孔子は、それまで書いていた歴史書の「春秋」の記述を止めて最後に「獲麟」とだけ記した。

 聖人の世に現れるべき麒麟が乱世に現れ、無知な人々に殺されたことで、自分の使命の終わったことを知ったというべきかもしれない。

 この「獲麟」という話を読んで、私はなぜかキリスト教のイエスが十字架上で亡くなった話を思い出した。

 イエスも世の中に救いをもたらそうとして、その志半ばで、十字架上で倒れた。

 まさに、平和の時代、平和の治世の象徴である麒麟が乱世の時代に横死したイメージと重なる。

 その意味で、麒麟というのは、乱れた世を救う使命を持った人物、救世主のような人物をイメージさせるのである。

 果たして、光秀にそのようなイメージが重なるのであろうか。

 NHKのホームページからは、そうした麒麟的なイメージを感じることができないのだが、ただし、孔子の時代の麒麟がむなしく志とは反して殺されてしまったように、若き時代の光秀には、平和な天下を切り開きたいという思いがあった可能性はある。

 確かに、その生涯をたどってみると、武将としても思想家や治政家としても、他の戦国武将のような無知蒙昧な人物たちと一線を画する。

 あばたのある夫人を一生愛し、他の女性には目もくれなかった倫理観や家族愛など、個人的な面では人格者であり、優れた武将だった。

 その光秀がなぜ、反逆をしたのか。

 これまでは、様々な謀略説などが展開されたが、この点に関しては明確な説は現れていない。

 ならば、光秀を前半生を彩った乱世を収める主人を求めた「仁」を理想として生きた人物として描くということなのか。

 戦国時代の終わりを告げる時代、それは織田信長をはじめ、豊臣秀吉、徳川家康など後に天下を取る器量をもった武将たちが綺羅星のごとく登場する。

 天下を取るということは、それが武力でなされるかどうかは別として(織田信長は「天下布武」という武力による統一国家を目指した)、全国各地に割拠した武将たちも、自分が天下を治め平和な時代を切り開くという夢があったことは間違いない。

 その意味で、光秀も応仁の乱以降の乱れた戦国時代において、平和な国づくりを目指して立ち上がった戦国武将の群像の中の一人という印象を受ける。

 果たしてどのような光秀像が描かれるのか、歴史的事実をもとにどのような展開を見せるのか期待と不安がある。

 まさか史実を曲げたりファンタジーのような物語ではないだろうけれども。

 もちろん、最近では、歴史の再検証、新史料などの発見などによって、従来の歴史人物の見直しが行われていることは確かである。

 よく知られているのは、忠臣蔵で悪役のイメージがある吉良上野介が、物語とは違って地元では善政を布いていて慕われていた有能な名君であったことなどがある。

 光秀も、そうした悪評の中から、不死鳥のようによみがえるのだろうか。

 いずれにしても、歴史は勝者によって書かれるということを考えれば、歴史を再検証することは重要である。

 明智光秀には、死後、さまざまな伝説が生まれた。

 実際は死んではおらず、徳川家康のブレーンとなった天海僧正がその後身であるという説や娘婿の後裔が、幕末の志士・坂本龍馬だったというような話が伝えられている。

 どちらも、具体的な証拠の史料がないので(状況証拠らきしものはある)、学説とまではならないが、源義経がモンゴルのジンギスカンだった、というようなほとんど証拠がない説よりは、ある程度の史実が反映しているといっていいようだ。 

 それについては、高知県立坂本龍馬記念館のホームページでは、次のようにこの説について述べている。

 明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一説に「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ケ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、両家の関係はわかりません。しかし、言い伝えとして、坂本家の中で受け継がれているようですから、資料がないことを理由に、否定することもできないと考えられます。

 要するに、何らかの関わりがあったことは推測できるが、それが明智光秀と直接関係するかどうか疑問であるということだろう。

 歴史ロマンとして受け止めておけばいいのかもしれないが、興味深い話である。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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