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『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』 (10) 慶州


 慶州は古い都である。新羅の風俗が色濃く刻まれている。それもそのはず、慶州は紀元前57年、朴赫世(パクヒョックォセ)がこの盆地に王都を定めて以来、約1千年間、新羅の王都として続いた。一時、大邱(テグ)に遷都する動きもあったが、実現しなかった。恐らくこれほど長く続いた王都は、世界史上、稀であろう(935年、新羅の敬順=キョンスン=王が高麗に帰服し、滅亡)。
 新羅という国号は、503年、第22代王・智証麻立干(チジュンマリプカン)4年に定めた。新羅の新は「徳業日新」から、羅は「綱羅四方之民」から採用された。その意味は、王の行う重要事がますます新しく、四方すべてに及ぶということ。『魏志』韓伝には、辰韓(ジンハン)に斯盧(サロ)国という国の名が見えるが、それが後の新羅である。当初、王都は徐那伐(ソナボル)、斯盧、始林(シリム)などと呼ばれていた。
 朝鮮の歴史で初めて誕生した善徳女王は、女ゆえに中国からも軽くみられた。統治能力があるのか、三国鼎立の時代をしのげるのか。それをはねのけるように、善徳女王は巨大かつ精巧な建築物をつくった。皇龍寺(ファンニョンサ)、九層の木塔、瞻星台(チョムソンデ)などが、それである。
 これは対外政策をにらみ、仏教文化を高揚させるなかで、新羅の存在感をアピールしたものと思われる。

 芬皇寺(プヌァンサ)の石塔は興味深い。本来は九層の石塔だが、いまの残るのは三層。近くで見ると、レンガの積み上げ方が見事である。この模塼石塔といわれる技法はシルクロードを渡って、中国経由で新羅に入ってきた。中国に修行に行っていた僧侶がその技術や様式を持ち帰ったもので、善徳女王がその建立に際し起用した。父・真平(チンピョン)王とは違った新しい統治スタイルを作りあげようと姿が浮かびがる。芬皇寺という名には、「香り高い皇帝の寺院」という意味が込められている。

 芬皇寺の周辺は、広大な皇龍寺の跡地が広がるが、いま礎石しか残っていない。その中心に立って、遠くの山ヤマを見ると、思わず日本にいるような錯覚を覚える。寺址の外周の一角には、二本の石柱が立ち、その下に亀が苦しい顔をしてうずくまっていた。亀趺(きふ)である。柱の台座であろうか。
 秋、コスモスが揺れる皇龍寺址は、40年前に発掘が始まったと聞いた。大きな考古学の発掘調査であったはずである。皇龍寺調査・研究の拠点となる文化センターが敷地内にある。
 江戸時代、『鶏林唱和集』といった和綴本が盛んに出版された。「鶏林(ケリム)」とは新羅をさすが、ひろくは朝鮮を指していた。これは通信使と日本の儒学者との漢詩文の唱和集で ある。通信使は「文の国」の使節である。儒学や漢詩文にひかれる日本の儒学者たちは、通信使が来日すると客館に押しかけ、たいへんな賑わいであった。版元は、その一端を「唱和集」として出版し、市井の求めに応えたのである。

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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