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文鮮明・韓鶴子総裁の統一運動(ボリビア編) その2

ボリビアのラグーナ・ネグラ

ボリビア宣教史 その2

2005年12月13日午前、文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻がボリビアの第二の都市サンタクルスに到着された。お二人は、「天宙平和連合創設」のために世界120都市を回っておられた。その夜、ホテルで行われた講演会には、国会議員、県知事、裁判官、メソジスト教会大司教などVIP500人が参加した。講演内容は、祝福結婚を通じた血統転換の重要性、平和大使の責任、アベル国連の意味、ベーリング海峡ブリッジ、トンネル計画の意義、などであった。

準備段階時に、韓国から辛明基国家メシア夫妻、日本から宣教師15人、ブラジルから宣教師とメンバー10人が到着し精誠を捧げた。

9月12日に米国ニューヨーク市を出発し、5大陸を移動した世界ツアーは終盤にさしかかり、ボリビアで90番目だった。総裁ご夫妻はお疲れのようだ、と聞き心配していたが、終始お元気そうに振る舞われ、準備したお食事も全部食べられた。

講演の最初、やや参加者の表情が堅かった。ところが、途中に、幼いお孫様が突然壇に登ってきた。文総裁が壇上を動き回る彼を追いかけ、また、韓国の童謡を歌われるというハプニングが起こった。世界的な宗教指導者が、孫と戯れるという、アットホームな出来事に参加者はすっかり喜び、雰囲気がガラリと変わり講演は大成功だった。

文総裁は、大会の翌日早朝、活動的中心メンバーを前に、ボリビアの将来について次のように語った。「フリーセックス、麻薬、アルコール中毒は大問題だ。大学生中心に『純潔運動』をしなければならない。エイズを防ぐ唯一の方法だ。」

「1960年代の韓国は、今のボリビア同様に貧しい国だった。私は、祖国を発展させるため、教会の青年を、貧困に苦しむ農村地帯に派遣した。彼らが、無償の労働奉仕をし、神様のみ言葉を伝えることにより、農村に精神革命が起こった。この動きが農業発展に繋がり、韓国経済の向上に大きく寄与した。これは『セマウル運動』と呼ばれ、韓国の歴史に刻まれている。」

「韓国で出来たことは、ボリビアでも出来る。『セマウル運動』を始めるべきだ。そうすれば発展する」

「韓国語で、『ボリビア』という言葉の発音は『希望を持ちなさい』と聞こえる。まわりのラテンアメリカ諸国に希望を与える国になりなさい」

文総裁ご夫妻に直接お会いしたことによって、メンバーの信仰は大きく飛躍した。

次のようなことがあった。祝福活動でメンバーが官庁や会社訪問をしている時のことである。一人の役人が、文総裁の事を口汚く非難した。これに対し、そのメンバーは「その批判は、根拠のない単なる噂だ。あなたは文総裁に直接会ったことがないだろう。私は直接にお目にかかった。彼は全く正しい人だ。そのうえ、私の父母様だ。親の悪口を聞いて黙ってはいられない」と強く抗議した。そのため、その役人は、衆人の前で謝罪する羽目になった。

翌2006年、韓総裁、子女様、お孫様の3代が世界40ヵ国を巡回講演し、ボリビアにも来られた。その際、組織的基盤が整っている国家では、メイン講演と同じ日に全国12カ所で大会を開くようにと言う指示があった。しかし、その他の国、例えばボリビアではその半分の6カ所で良いという連絡が来ていた。しかし、ナショナルリーダーのネリーは「総裁夫妻の願いは、大会当日に12ヶ所で開くことにあるのだから、6カ所では駄目だ」と強く主張した。まわりは、それは我々の実力の限界を超えている。到底無理だ、やめるべきだとアドバイスしたが、彼女は聞く耳持たずに12カ所で大会を決行した。

案の定、問題が起こった。ある会場では、開始時間になっても参加者が一人も来なかった。動員を確約してくれた、NGO団体が約束を破ったのである。すると、その会場を担当した3人のメンバーは即座に付近の高校、大学、会社を訪問して勧誘し、わずか1時間で、250人の会場を満杯にした。ある高校では、教師がクラスを臨時に休みにして生徒全員で講演に参加した。その他、韓総裁をお迎えしてのメイン会場での講演でも細かなミスが連続し、ご家庭に対しても少なからず失礼があった。しかし、韓総裁はこれら失敗、無礼は一切とがめず、むしろネリーの冒険的信仰を褒めてくださった。

これら一連の行事を遂行して、大きな反省点が残った。その当時活動的メンバーは全国で30人ほどだったが、これでは到底今後の摂理に応ずることが出来ない。メンバーの絶対数を増やさなければどうにもならない、と言うことである。このため、まず、現存するメンバーの内部教育に力を注いだ。原理セミナーを充実させ、さらに全メンバーが原理講義出来るように講師養成を急いだ。その後、伝道に傾注し、核心的メンバーとなるべき人材の発掘に力を入れた。

満を持して、2011年に全国40日開拓伝道を実施した。男性は単身で、女性は二人一組で、伝統に則り、原理講論、身のまわり品、片道の交通切符以外は持って行かない。もちろん宿泊場所も決まっていない。1950年代の家庭連合草創期に、韓国教会の先輩達が実施したのと同様の苦難路程である。霊的に幼いボリビア人に可能なのか、心配はつきなかった。しかし、南米にも、真の父母様の伝統は受け継がれていた。彼らは、断食を続けながら、ある人は農家に泊まり込みながら、無償で農業を手伝い、ある人は、パン屋に泊まり込み、早朝からパン作りを助け、伝道活動に従事し、次々と新しい基盤を確立した。

教勢拡大を決心して以降、今日までにメンバーは10倍以上に増加した。

2012年7月、文総裁が聖和(逝去)される2カ月前、南米大陸会長が「ボリビアでは若いメンバーが、草創期の韓国教会をしのんで、片道切符だけ持って任地に行き、断食を続けながら、開拓伝道を実施しています」と文総裁に報告した。すると文総裁がにっこりと微笑まれ、うなずいてくださった。これがボリビア教会メンバーにとって永遠に忘れられない思い出となっている。

ボリビア宣教史 その3

文総裁は、最先進国であるアメリカ合衆国と発展途上の南アメリカ諸国を比較し、以下のように論評している。「北アメリカに来た人々の動機は神と信仰の自由であった。その結果、彼らは、神ばかりでなく、自由も富も得たのです。同時期に多くの人が、南アメリカに行きました。彼らの唯一の動機は金でした。南アメリカは、北アメリカ大陸に劣らず、肥沃な土地でした。しかし、植民者の動機が金であった場合は、金はおろか、神も自由も見いださなかったのです。そして、南アメリカは低開発国のままで終わったのです」

「アメリカに対する神の希望」

金を求めて、大西洋を渡ったが、富にも、自由にも恵まれなかった植民者の後孫が作り上げた国家の一つがボリビアである。そこは、利権と金銭を得ることが優先され、そのためには、基本的人権は軽んじられ、時には、倫理道徳が踏みにじられる社会であった。

宣教40年を超えようとする2014年から5年間、私たちはこの社会悪と真っ向から戦うことになった。

 この年4月のある日、スクレ市検察局検事が複数の警察関係者と共に、サンタクルス市、スクレ市の両教会を令状保持して訪れ、コンピュータ数台、カメラ、撮影機、書類多数を押収していった。裁判所認可の家宅捜査であった。

告訴状には驚くべき内容が記されていた。二部構成になっており、前半は教会組織に対する全般的な告発であったが、特に問題なのは後半部分であった。訴えを起こした人物は、スクレ市在住のA(女性、学生、19歳)である。訴状によると、彼女は、2013年暮れから2014年初頭まで、教会主催の教理研修セミナーに参加したが、セミナー中に「三日儀式という教理」の実践として、信者多数から性的暴行を受け精神に異常が生じた、というものであった。事実無根の濡れ衣である。

自称被害者のAが、当該セミナーに参加したのは事実である。ところが、彼女は講義時間中に、精神異常の発作を起こしたのである。教会は、彼女を市内の総合病院精神科に連れて行った。そこで緊急精神錯乱症候群の診断がくだされ、そのまま入院し、統合失調症の投薬を受けた。家族に連絡すると、彼らは、入院継続を勧める医師の意見に従わず、自宅へ彼女を連れ帰り、その後一切の連絡がとれなくなった。そして、突然の告訴であった。

韓国、日本、アメリカなどの民主主義先進国の国民には、理解し難いところがあるが、当地では、裁判システムが腐敗しており、訴訟が不正な金儲けの手段に用いられることがある。私たちのケースは、彼女の母親と、悪徳弁護士そしてスクレ市の検察局がチームを組み、教会から金銭を獲得しようと目論んだものだった。

後に判明したことであるが、自称被害者Aは、精神障害の発生により、セミナー当時の記憶が失われていた。母親と弁護士が、それにつけ込み、「あなたは暴行されたのだ」と思い込ませたものである。記憶の白紙部分に虚偽の事実を書き込んだもので、彼女はそれを信じたのである。

暴行事件をねつ造し、それをネタに告訴して教会をゆすり、裁判の流れを示談の方向に持ち込み、多額の金銭を奪取し、そのもうけを山分けすることを約束して、検察局を巻き込んだのである。

2016年2月、スクレ市簡易裁判所は、日本人国家メシア、ナショナルリーダー、地方教会長2名の4人をサンタクルス市の刑務所(拘置所兼)に勾留することをきめた。検察局は、監禁、暴行容疑禁固25年要求で正式に起訴を決定した。

冤罪であるからには、負けるはずの無い戦いであり、また、負けてはならない戦いであった。しかし裁判闘争は困難だった。次の理由による

1 裁判官が、4人が「有罪」であることを前提に審議を進めていること。

2 検察が重要証拠を隠滅した。

3 新聞、テレビが、自称被害者を¨悲劇のヒロイン“として報道した。世論が私たちには逆風だった

4 記憶を失った本人が、母親と弁護士の洗脳によって、暴行されたことを信じた。この種の犯罪において、被害者の証言が最大の証拠になる。彼女は裁判官、検事の前で泣き叫ぶのである

韓総裁は、4人が拘束されたという報告を聞くと、全力で救出するように指示された。

これを受けて日本教会では、元法務大臣、保岡興治氏に依頼、彼は外務省を動かし、ボリビア政府が公正な裁判を行うように働きかけた。

新任の弁護士グループは有能だった。検事側の唯一の証拠は、被害者と称する女子学生Aの被害証言である。証言の信憑性を崩さねばならなかった。裁判官の心証が悪い以上、100パーセント無罪であることを納得させなければならない。しかし、彼らは困難な課題を乗り越えた。2018年2月判決が下った。3人の裁判官全員一致で、4人の無罪釈放だった。圧勝である。4人は、勾留以来、745日ぶりに自由を獲得したのだ。

この裁判を仕掛けた人物達は、自分の利益のためにはどんなことでもする。母親は、娘が精神病を発症するという家族の不幸を、金儲けに利用した。弁護士は、宗教がらみの出来事に、金の匂いを嗅ぎつけ、嘘の告訴分を作文した。さらに心理学者を買収し、被害者Aの証言は100%信用できると書かれた法廷助言書を提出させた。検事は、上記の証拠隠滅以外に、暴行を証明する偽の医療診断書を司法医に書かせるなどの罪を犯した。そして警官の証言は全て嘘であった。

裁判は決着したが、4人のメンバーにとって失われた2年は戻らない。

釈放後に開かれた感謝会で、弁護士の一人は、「4人は、真の信仰者だった。牢獄の苦難の中にあっても、自称被害者Aを責めず、憎まず、逆に彼女の罪が許されるように祈っていた」述べ、また、「不正と社会悪に、正義が勝った。奇跡だ」と語った。ある国会議員は、「今回の冤罪事件は、国家的犯罪だ。国民を代表して4人に赦しを請いたい」と発言した。しかし、何よりも、李廷文特使を中心にボリビア人メンバーが団結し、勝訴を信じ、祈祷を続けたことが勝因の第一であろう。

ボリビア宣教史  その4

2019年11月、ボリビア大統領を3期14年務めた、エボ・モラレス氏が、選挙を巡る混乱の中でメキシコに亡命した。彼は、先住民として最初に大統領職に就き、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領と共に「21世紀の社会主義」を掲げた反米左翼政治家であった。

ボリビア多民族国には、 ヒスパニックと先住民文化が結びついた多様な文化がある。2012年の国勢調査によると、ボリビアの人口の59%はスペイン系と先住民が混血したメスティーソであり、純粋先住民族の人口は37%(25%ケチュア、11%アイマラ、その他1%)である。その他4%はヨーロッパの移民の白人の子孫だ。

エボ・モラレス氏は1959年アイマラ族の農村地域で生まれ育った。17歳で兵役に就いた後、様々な職を転々とし、コカ栽培農家になる。以後、コカ栽培農家の農民運動の中心人物となり、1997年に下院議員に当選するが、2002年に暴動を扇動したとして議員を除名される。その後、ボリビア反政府運動の中心人物として活動し、2005年の大統領選挙に当選する。

彼の勝利を理解するため、背景を説明する必要がある。経済的には1990年代の終わりに、国内総生産(GDP)の成長が鈍化した。貧富の格差は拡大し、失業率と貧困率は依然として高いままだった。2002年、ボリビアの人口の64%が貧困層と見なされていた。

同時に、政治的に危機状態であった。 1985年から1990年代後半にかけては、比較的安定期が続いた。大統領が、選挙結果に加えて政党間の話し合いで決定される「協定による民主主義」モデルとして南米で評価が高かった。しかし1990年代後半になり、国民不在であると批判が増大し、伝統的な政党への信頼が大きく揺らいだ。

新大統領の政策は、先住民を中央政治に参加させ、 彼らの権利を擁護するものであった。

しかし、考慮すべき側面は、植民地時代の差別と虐待によって蓄積された先住民の不満と怒りである。ボリビア革命以後の共和制時代の政治家も、先住民のこの感情に無関心であった。 先住民の生活様式を合法化し、置かれた不利な立場を、劇的に改善することを約束した与党の社会主義運動党(MAS)によって、この憎悪心は利用された。支配者に奪われた全てを取り戻すという約束は先住民の心を強くつかんだ。

大統領当選後、モラレスはコカの栽培農地倍増計画を実施、アメリカ政府主導のコカ栽培根絶計画(コカの葉は麻薬コカインの原料になる)に公然と反対を表明した。

«このコカの葉はアンデスの作物を代表しています。 それは環境と人々の希望を表しています。 」と彼は言った。2008年、彼は米国麻薬取締局を追放した。

ボリビアはその間経済成長を続け、世界銀行は低所得国のリストから削除し、中所得国のグループに配置した。炭化水素(天然ガス)や原材料の価格上昇を特徴とする経済成長の波に乗ったのだ。しかし、国民の心は徐々に大統領から離れていった。

彼の目指したのは、選挙を通しての文化革命である。革命である以上、政権が永続しなければならない。そのため選挙に勝ち続けるあらゆる手段を用いた。大統領選挙は言うに及ばず、上院、下院、地方自治体首長選挙で勝つために、道路封鎖などの実力行使を行った。彼がコカ栽培農家出身であることから、コカ栽培農家の組合(コカレロ)が街頭闘争の先頭に立った。投票箱から、既に亡くなった人の票が大量に発見され、選挙管理委員会が無効を宣言すると、このコカレロ達が、委員会周辺を実力封鎖して宣言をひっくり返すという無法が横行した。

支持者である左派指導者の一部が意見の違いで政府を辞任し、又、政府関係者が汚職の容疑で告発されたとき、大統領は、連続2期までと憲法上で制限されているにもかかわらず、これを無視し、3期目に出ることを決心した。

彼は2016年に3期出馬の是非を問う国民投票を実施した。 結果は、僅差ではあったがNOであった。人々がモラレスに飽き飽きしていることの兆候であった。彼は有権者の意向を尊重して撤退すると宣言した。しかし、モラレス政権下で司法制度は不透明である。 翌年、大統領の意向を忖度した憲法裁判所が、大統領の3選を妨げるのは基本的人権の侵害に当たると表明、これを受けて大統領は、早速出馬表明した

いかがわしい司法プロセスによるこの決定は、多くのボリビア人を怒らせた。 彼を支持していた先住民コミュニティの中でさえ、大統領が辞任する時がきたと言う人が増えた。

2019年10月20日の大統領選挙で、モラレスは3期目の勝利を収めたと発表したが、米州機構(OAS)の選挙管理委員会は投票操作による不正であるとして勝利を認めなかった。

抗議者たちはボリビアの行政首都(ラパス)の通りを埋め、激怒した群衆はモラレスを「独裁者」と叫んだ。国は混乱に陥った。 軍は中立を守ると宣言し、一部の警官は反乱に加わった。軍の最高司令官と国家警察の司令官はモラレスに辞任を求めた。モラレスは亡命するしか残された道は無かった。

エボ・モラレス氏は、差別され、圧迫されてきた先住民の恨みと憤激を、資本家、米国、西欧文化、カトリック教への憎しみに転化させ、政権運営のエネルギーとした。しかし、その結果、国内に争いが多発し、分断は深刻になった。憎悪心を国民統一の基本精神に据えるのは禁じ手である。

今年8月9日に100万人オンライン希望前進大会が開催された。韓総裁がメインでお話しされ、カンボジア・フンセン首相、潘基文前国連事務総長、ギングリッジ元米国下院議長、伊達忠一元参議院議長など多くのVIPがスピーチされた。150ヶ国188のテレビ、ラジオ、新聞により、ライブ中継され、視聴者が全世界で二億人を数えるという驚くべき結果が出た。

大会のテーマは「共生共栄共義」であった。普遍的真理の下で、豊かさを分かち合い、共に生きよう、ということである。人を憎むことを止めよう、真の愛でために生きよう、という趣旨に多くの人々が共感したのであろう。

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