黄七福自叙伝29
「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」
第3章 民団という組織のこと
民団大阪本部が結成されたころ
一九四八年(昭和二十三) 八月十五日に大韓民国が樹立され、続いて九月九日には北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。
この本国情勢によって、朝連は北朝鮮支持となり、韓国を支持する勢力によって在日本大韓民国居留民団(民団)が設立されていくのである。
朴烈が釈放されると、朝連は当初、猛烈に勧誘したが、朴烈にその気がないとさとるや、爆弾投げただけのものという形の低い評価しかしなくなった。
私は、裏でコソコソ言うよりは表で一つやる、すなわち不言実行の行動派を評価する性格だったから、朴烈のようなテロリストを評価していた。
昭和十五年ころ、金日成将軍の所へ行くという話があったころだが、国のために自分は何か一つだけやると、そいう気持がずっとあった。爆弾を投げるなり何かして、自分が命を投げ出すことによって、何だかの効果があれば、いつでもやるという心の準備はしていた。
そのときは、朴烈の存在を知らなかったが、のちに朴烈の話を聞いて、偉い人だと、民族の立場で尊敬できる人だと思った。
朴烈とは一度、大阪で会った記憶がある。民団の会合で講演をしたか何かのときだったと思う。大阪で一番近い存在は姜桂重だったように思う。
「パンヨリ(朴烈)先生、パンヨリ(朴烈)先生」と言って、尊敬していた。
朴烈は、朝鮮居留民団を立ち上げるといって、生野のゴム製造業者らと懇談したようだった。生野は当時、ゴムと石鹸の製造業者の全盛時代で、金のなる木だった。
民団大阪本部の結成大会が開かれたのは、一九四七年一月五日のことだった。
場所は生野区御幸通りの日の丸食堂といわれるが、当時は朝連の勢力が圧倒的に強かったから、大会といえるほどのものではなかったようだ。
本部事務所は生野区中川町の厚生医療病院の一室であったといい、役員は団長に黄性弼、副団長に曺秉昊、崔二圭、議長に康興玉、監察局長に金貴順らが選出されたと聞いている。
その民団大阪本部の初代団長である黄性弼も生野のゴム製造業者だった。私は、黄性弼という人をよく知らないが、桧山ゴムという会社を経営し、生野で五億円ぐらい財産があるという評判だった。そのほか、大陸ゴムとか朝日ゴムとかの会社も有名だった。
一九四六年六月、本部事務所は、生野区中川町から北区浮田町五六番地のビル(黄性弼所有)に移った。
当時、北区中崎町の旧協和会館(現民団大阪本部)は朝連大阪本部が占拠しており、僅か数百メートルしか離れていなかった。
民団東住吉支部のこと
朝連が日共の別働隊のような働きをして暴力路線を暴走することに反対する勢力によって、民団が設立されるようになった。
そうした分派行動は許されないというのが朝連の組織命令であったから、各地で衝突事件が発生した。
一九四六年六月、朝連東阿分会を結成した朴根世が、朝連を脱退して、一九四七年一月、自宅(東住吉区平野元町)に民団東住吉支部の看板をかかげた。
一九四九年五月には、朴根世の自宅二階に二十余人の同胞が参集して民団東住吉支部結成大会を開いた。午後一時過ぎ、朝連東阿支部の青年五十余名が会場を取り囲み、大声で「朴根世に会わせろ」と騒いだ。
この騒ぎに警察が緊急出動し、民団と朝連とが険悪な空気のなかで睨み合うこと二時間、代表者同士の話し合いももたれた。
「左傾化の朝連に反対する」という民団側の強硬な姿勢に、朝連側も退散せざるを得なかった。
この後、結成大会を続行し、支団長に朴根世、議長に朴柄淳、監察委員長に李相智を選出し、事務所を朴根世の自宅に設置した。結成大会の四ヶ月後、朝連が、GHQにより解散させられたのである。
当時は、民団を名乗るだけで村八分のような状態にされ、場合によっては命の保障もなかった。
そして、民青の青年らが殴りこみにいったのも同然の状況のなかで、それでもひるまずに支部を結成した朴根世という人は、根性のある、えらい人だと思った。その子供が朴洸世で、後に支団長もやったが、その朴洸世が、父の朴根世について次のように語っていた。
父は解放前、東亜日報の記者をして、雪に身を隠して豆満江を渡り、間道(現在の満州)へ行ったこともあり、渡日してからも平野警察や特高警察に尾行される毎日で、戦時中は富山県に疎開していた。
終戦になって大阪に帰り、東住吉地区の朝連設立に奔走し、副委員長に就任したが、その後、朝連組織と訣別し、命を狙われるトラブルのなかで、平野警察が警備するなか、民団東住吉支部を設立した。
その時、私は二十歳で、私ら家族を団員に登録し、家に民団の看板がかかっていたのを覚えている。同胞のほとんどは密造酒を作っていたが、その崔某という同胞が、借金を返さないために、その借りていた家を差し押さえ、民団事務所として使用するようになった。
父からは「日本社会の差別はつきまとうから、それをなくするためにこういう民族団体を作っている。同胞は一致団結して進んでいかなければならん」と教えられた。
朝連が解散になって、私は、一年間ぐらいはどこにも出なかった。私は以前から、共産主義に対しては大いなる疑義をもっていたし、朝連の解散が共産主義によるものであることを知って、朝連勢力とは決別する考えでいた。
そうこうするうちに、民団東住吉の役員がきて、「朝連がなくなっているのに何しているや。うちこいや」と誘われた。
「共産主義反対」の姿勢に共鳴するものがあって、それが、私の民団活動のはじまりとなり、民団の会合に参加するようになった。
民団組織は、指導理論のようなものは何もなく、共産主義に反対し、自由民主主義を支持するという大まかな気持で固まっているにすぎなかった。言葉は悪いが、烏合の衆に過ぎなかった。
しかし、会合などに参加すると、同胞の幸福のためにも強い組織にしたいという気持が湧き上がってくるもので、そういう私の姿勢が会合でも見られたのか、私を支団長に推薦する者も出てくるようになった。
一九五〇年六月に六・二五動乱(朝鮮戦争)が勃発し、同胞社会は動揺した。民団東住吉支部でも、同年九月、東住吉区平野浜町1一9(現在の平野市町三-七‐一三)に事務所を移転し、組織防衛に努めたが、民戦の暴力革命路線はますますエスカレートしていた。
民戦は、在日朝鮮統一民主戦線という組織で、朝連の後継組織として一九五一年(昭和二十六)一月九日に結成された。
その民戦の下に祖国防衛委員会祖国防衛隊(祖防)が組織され、朝鮮戦争に出動する在日米軍の後方攪乱などの非合法活動を展開したのである。
私も、民戦に参加するよう、時には夜もきて執拗に勧誘されたが、私は参加せずに、静観することにした。共産主義とその暴力革命思想に対してはいろいろと疑問を感じていたからだった。
一方、民団中央の金載華執行部は時の金龍周公使追放運動を展開し、大韓青年団も金載華執行部を支持して、追放運動を敢行していた。