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黄七福自叙伝「安重根による伊藤博文暗殺」/「関妃殺害事件」


 

黄七福自叙伝04

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第1章 祖国解放までのこと

安重根による伊藤博文暗殺

一九〇九年十月二十六日午前九時三十分、朝鮮統監府の初代統監であり、また初代総理大臣でもあった伊藤博文は、満州ハルピン(現在の中国奉天)駅で、安重根義士(三十二歳)にピストルで狙撃され、出血多量で絶命、六十八歳だった。

暗殺に先立つ一九〇九年四月、伊藤博文、小村寿太郎の首脳会議によって韓国併合案を決め、七月に閣議決定した。

それと同時に伊藤は朝鮮を去り、副統監であった曾禰荒助が統監に就任した。その後、枢密院議長になった伊藤は、ロシアのコーコツェフ蔵相と満州国問題について会談するために、ハルピン駅に赴き、列車を降りて、ホームに整列したロシア軍警備隊を閲兵した直後の出来事だった。

大韓帝国の国権回復を訴える安重根義士は、日本の植民地化政策に抗議し、伊藤博文の暗殺を決行した。

安義士は現場でロシア兵に逮捕された後、日本側に引き渡され、旅順の日本地方院の裁判により即刻、死刑となった。安重根義士の記念館がソウル南山に建てられている。

 

関妃殺害事件

閔妃殺害事件は乙未事変ともいわれ、一八九五年十月八日大院君を担ぎ出そうとした勢力により実行された。

その勢力は、日本公使・三浦梧楼らがかき集めてきた日本浪人六十余名で、七日夜から八日早朝にかけて、王宮に乱入、侍衛隊長や宮内大臣を殺害、そして閔妃も殺害し、死体を凌辱したのち、焼き払うという残酷なものだった。

事件発覚後、彼らは領事裁判権に守られ、日本でも「証拠不十分」として全員免訴とされた。

また、金弘集内閣も、事件の真相を発表できず、朝鮮人を下手人にしたてあげ、処刑した。

日本は、再び金弘集と兪吉濬を中心とした親日派内閣に改閣し、一八九七年(高宗三十四)に国号を大韓帝国に、年号を光武に改称した。

閔妃は一八五一年に閔致禄の娘として生まれ、一八六六年、十五歳のとき、第二十六代王・高宗(李熙)の妃となった。

本貫は驪興閔氏、諡は孝慈元聖正化合天明成太皇后、略して明成皇后ともいう。

王の実父である興宣大院君の確執との中で、江華島事件(一八七五年)が起き、日朝修好条規が締結された。

壬午軍乱(一八八二年、閔妃脱出)、甲申政変(一八八四年、閔妃失脚)が起きたが、閔妃は清軍(袁世凱)の助けで政権を奪回し、金玉均、朴泳孝、徐載弼らは三日間で失脚して日本へ亡命した。

一八九四年、関政権は上海に刺客・洪鍾宇を送り、開化派の金玉均を暗殺した。甲午農民戦争が起き、閔氏政権が倒され、閔一族の多くが殺された。

日清戦争が起き、休戦後、閔妃が復活し、親露政策を採用したことから、殺害された。


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