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除夜の鐘は騒音なのか?

 本当に一年が終わるのを実感するのは、大みそかの深夜に打ち出される除夜の鐘の音である。 

 今では、東京都という大都会に住んでいるために、除夜の鐘の音をリアルに聞くことはできないけれど、故郷の東北の地方都市に住んでいた時には、深夜布団に就寝していると、空の雲を共鳴体にするかのように、低音で長く尾を引く彗星のような鐘の音色が聞こえて来た。 

 あれは、どこのお寺だろうか、しばらくの時間、思いを寄せていると、いつの間にか眠りに入いっていた。 

 おそらく、都市の片隅にある山の中腹あたりの寺かもしれない。 

 そう思っているが、はたしてそうであるかどうか、確かめてみたことはない。 

 こうした除夜の鐘を初詣をする前に聞いていたのも、東北地方の冬は寒いからだが、そうした育ち方をした私にとって、恒例行事と化している紅白歌合戦も年越し蕎麦もベートーベンの第九の演奏会も、年の終わりのイベントしては除夜の鐘を聴く前の通過点のような印象だったことを記憶している。 

 近年、この除夜の鐘に対して、「騒音」と感じている人がいるらしい。 

 その音色が音楽であるか、「騒音」であるかを判断する絶対的な客観的基準というものはない。 

 あくまでも、聞いた人の感情、個人的な受け止め方の問題である。 

 同じようなことは、除夜の鐘に限らず、保育園や幼稚園の園児たちの声がうるさいとクレームをつけるケースにも言える。 

 実際に、保育園を建てようとすると、そうした考えをもつ住民の反対運動によってなかなか実現できないケースもままあるようだ。 

 園児たちの声を騒音と感じるかかわいい子供たちの声と感じるかは、これもまた主観の問題である。 

 誰もが同じように考えたり感じたりするのではない、ということを示す例といっていいだろう。 

 これを個人主義のいい点とみるか弊害とみるかも、これまた簡単に判断できることではない。 

 ただ、こうした個々人の意見を一つひとつ取り上げていたら、問題が解決できず、収拾がつかないことは確かである。 

 だからといって、個々人の意見を多数で押さえつけてしまうとすれば、共産主義のような全体主義国家のようになってしまうだろう。 

 そのあたりは、難しい問題だが、除夜の鐘の問題に限れば、これは政治の問題ではないので、各地の寺院の対応に任せられるということになる。 

 なので、寺院によっては、夜にする除夜の鐘を昼間に変更したり、中止してしまうというケースがあるという。 

 除夜の鐘は、もちろん、伝統的な習俗であり、法律で決められた習慣ではない。 

 お寺が各自それぞれの対応をすることは、仕方がないといっていいだろう。 

 しかし、大みそかの深夜に突くべき鐘を昼間に突いたら、それでクレームの対処にはなっても、その時刻に突くという本来の意味からすればどうだろうかと思う。 

 除夜の鐘は、仏教の宗教的な行事に当たり、一年間の積み重なった罪を祓うという意味がある。 

 その突く回数が108回なのも、仏教的な概念から人間の煩悩の数は108もあるからだという説があるが、そのあたりの詳しい理由はわからない。 

 ネットのウィキペディアの説明では、煩悩の数について以下の通りになっている。 

 「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表す」 

 「月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表す」 

 これを読んでも、仏教の素養がないと、なかなか理解しにくい説明である。 

 ただ、現世で生きることを「苦」と捉える仏教らしい考え方とはいえるだろう。 

 「苦」から逃れて、悟りを開き輪廻転生をするという仏教の概念から生まれて発展したのが除夜の鐘であるとみることができよう。 

 とはいえ、除夜の鐘の行事そのものは、もともと発祥国のインドあたりから来ている習俗ではなく、中国で生まれたものらしい。 

 それが日本にもたらされ、江戸時代あたりに伝統的な習俗として行われるようになったようだ。 

 その意味では、伝統的習俗といっても、仏教教義にあるものではなく、神仏習合的な性質を帯びた日本的な習俗といってもいいかもしれない。 

 なぜなら、除夜の鐘によって罪の穢れを祓い、新しい年を迎えるというのは、神道的な禊(みそぎ)をして新たに生まれ変わるという考えと重なるからである。 

 仏教における罪を祓うという考えは、何も大みそかにしなければならないというものではない。 

 それが大みそかに限られて生まれたのは、自然の春夏秋冬のサイクルを人間の一生や植物の生涯を教義の核としている自然観、春夏秋冬を誕生から成長、そして死というサイクルに比定している神道的な考え方と結びついているからだろう。 

 そして、罪を祓って新年を迎えるということは、その冬という死を超えて新たに生まれるという神道の考え方そのものである。 

 その意味で、除夜の鐘そのものは、仏教のオリジナルから来ているものではないので、それを昼間に変えたり、中止したりするというのは、基本的に問題がないと言えば問題はない。 

 だが、祭りにしても正月行事にしても、それ自体は発生した当初の意義を失って存続しているとしても、それを行うことによって、日本人としてのアイデンティティーを確認するということでは重要な意味では大事な習俗であることは間違いない。 

 人は、その生涯に当たって、様々な習俗的な行事を通過するが、それは一面無意味といえば無意味だが、社会や集団の一員として自己確認をし、絆を深めていくということでは重要な意味をもっている。 

 もし、そうした通過儀礼を意味がないと止めてしまえば、同時に人間として社会や国家に属する自己自身のアイデンティティーの危機につながってしまうだろう。 

 たかが除夜の鐘、されど除夜の鐘だが、そこには、歴史をかけて守って来た祖先からの文化的なメッセージであり、絆なのだと思うのである。 

 (フリーライター・福嶋由紀夫) 

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