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「語学習得の壁を超えるためには?」その1

 語学が苦手である。

 外国語と言えば、英語の学習を義務教育で学校の授業で学んだ記憶がある。

 ずっと授業を受けて、今更だが、英語を外国人と話せても不思議ではないが、実際はまったく話せない。

 それは大げさになるかもしれないが、話しかけられたら、知っている英単語を連発するしかない。

 それは私だけのことではないだろう。

 コンビニやマクドナルドなどのファストフードなどでも、外国人が店員に話しかけてもしどろもどろになっている光景に出くわしたこともある。

 もちろん、今ではコンビニの店員も外国人が働いている場合も多くなったので、英語でのやりとりも不思議ではなくなった。

 それを見て、コミュニケーションを上手に取れるということがうらやましい気がしたことを覚えている。

 外国語をスムーズに話せない問題の本質は、どこにあるのだろうか、と考えた時期もあった。

 私が出した結論は、日本列島という外界を海に囲まれた特異な環境で、同じ日本人同士で生活していたので、外国語を習得するという必要性がなかったというものである。

 日本人同士ならば、外国語習得は必要ない。

 要するに、大陸の中にある国家であれば、外国語を話すというのは、交渉や平和を維持するための必須な条件だった、戦争中は別として平和に共存するためには、コミュニケーションがうまく取れなければならない、そのために自国語のほかに外国語を学び習得することは生存のための必須なアイテムだった。

 陸路を通じて、国境線を越えることができるというのは、逆に言えば、他国家との交流するためのコミュニケーション術は生きるための方法であり、そうでないと、いつ侵略されるかわからないという不安の中に生きるしかない。

 その意味で、外国語を習得するというのは、毎日、ご飯を食べるようなものであったといっていいかもしれない。

 自然に学習するものだったのである。

 その点では、そうした必要だった外国に比べると、日本における外国語習得というのは、海外の技術や学問などを受け入れるためのものだった。

 古来から日本に住んでいるかぎり、ごく少数の例外を除いて、外国人に接することはなかった。

 かろうじて、平安時代の遣隋使や遣唐使のように、中国などの先進文化を移植するために、留学生や留学僧のように外国語を習得することが必要条件であったぐらいである。

 それも、外国語を話すということも重要だが、最低限、漢字を通じて、筆談ができればある程度のコミュニケーションは取れたということもある。

 漢字というアイテムが重要だったので、日本語では漢字を読むための訓点を発明し、漢字の発音ではなく、大和言葉にして読めるように工夫した。

返り点などの訓読みがそうである。

 それから発展したのが、平仮名やカタカナであることは言うまでもない。

 そうした外国語を話さずに、書籍の文章の意味を理解する方法を確立したために、話さなければ相互理解ができないというコミュニケーションを発達させずに過ごすことができたのである。

 これは日本列島という周囲が海しかなかったので、それで済ますことができたと言い換えてもいい。

 何しろ大陸国家のように、地続きであれば、相手の考えを早く理解して対処しなければ、戦争になってしまうという事態はしばらく避けられる。

 直接に日本に来るためには海を船で越えなければできないので、外国との応答がすぐではなくとも問題がなかった。

 こうした歴史的なものが背景にあるのが、日本人の外国語習得の障害になっている要因であると推測している。

 だが、明治維新以来、もはや100年以上の時間が経過している現在のグローバル時代には、コミュニケーションをうまく取れないということは、プラスよりもマイナス要因にしかならないことは間違いない。

 なので、外国語、特に世界的な流通言語としてグローバルな英語が授業に取り入れられたといっていいだろう。

 授業に取り入れたのはいいけれども、生活圏での外国人との日常的な接触が皆無に近いので、話すためのコミュニケーションというものは重要視されずに、教養や課題として学ぶといった性質に近い。

 だから教科書で英語を学んでも実用化できない。

 必要性がそれほどないからである。

 根底にある異国語を話すためのツールであり、それは生活を維持し、生存を守り、平和に暮らすための生きる必須な条件がないからである。

 その意味では、周囲を海に囲まれた古代からの時代とそれほど環境は変わらないといっていいのである。

 生きていくためには、外国語、コミュニケーション術はそれほど必要ないという状況は今も同じなのである。

 そのことを考えれば、私が外国語習得を苦手としているのは、仕方がないといっていいかもしれない。

 もちろん、これは言い訳であり、単なる負け惜しみであることも自覚している。

 今の時代、外国語を話せないというのは、自分だけの世界で完結して生活するという以外は、様々な面で障害にしかならないからである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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