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詩人で彫刻家・高村光太郎の精神

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

ああ、自然よ

父よ

僕を一人立ちにさせた広大な父よ

僕から目を離さないで守る事をせよ

常に父の気魄を僕に充たせよ

この遠い道程のため

この遠い道程のため

 (高村光太郎「道程」)

 夫婦の純粋な愛を歌った詩『智恵子抄』などで有名な詩人で彫刻家の高村光太郎は、口語詩の「道程」がよく知られている。

 学校の教科書で読んだ人も少なくないだろう。

 私自身の記憶でも、教科書で知っただけではなく、この詩そのものが教室に掲げられていた記憶がある。

 難しい言葉は一つもなく、シンプルでしかも力強いリズムで畳みかけるような迫力がある。

 素直に読めば、青少年の自立宣言、ポジティブに生きる応援歌といった受け止め方ができる詩である。

 人間肯定主義、ヒューマニズムの精神があふれた詩といっていいかもしれない。

 それが学校教育の現場にふさわしい教材として選ばれているのだろう。

 正しく素直に生きるための手本といった面がある。

 その意味では、この詩に道徳臭を感じて、かえって反発を感じる向きもあるかもしれない。

 だが、この詩の背景には、高村光太郎の複雑な心境や思想対立など、そうした道徳的な解釈ではとらえきれない様々な要素が含まれている。

 そのことを教えてくれるのは、思想家で評論家でもある吉本隆明の一連の高村光太郎論である。

 初めて、吉本の論を読んだときの驚きは忘れられない。

 今手元にないので、記憶で言うのだが、確か高村光太郎の戦後の詩、日本国民総懺悔といった詩を引用して光太郎の精神史をたどったものだった気がする。

 光太郎は、戦中、いわゆる戦意昂揚のための詩を書き、それが多くの青少年を戦地に送る詩を書いたことへの後悔、それが戦後の懺悔の詩となった。

 そのことをたどりながら、なぜ西洋芸術に通じていた国際人の光太郎が、簡単に戦意昂揚の詩を書くような民族主義者になってしまったのか、それを追求していくことで、日本人の精神のありようを探っていく。

 吉本の論は、そのような道筋をたどっていたが、それはまた、戦中に軍国少年だったみずからの姿をあぶりだし、戦後における自身の思想的な自立の精神を確立していこうという精神的な遍歴ともなっている。

 光太郎の精神を通して、日本人とは何か、という問いを突き詰めているといってもいいかもしれない。

 よく知られているのは、光太郎は、明治時代を代表する木彫の彫刻家の高村光雲を父として持ち、その父に対する反発から、西洋彫刻を学ぶために、欧米やヨーロッパに留学した。

 光太郎の「道程」における自立宣言には、そうした父子の対立、相克があったことは間違いない。

 もちろん、父の象徴する伝統精神、個性を重んじる芸術ではなく、先人の技術を学んでそれを踏襲しつつ、そこに独自の工夫を重ねていく姿勢、職人的な伝統文化に対する激しい拒絶反応もあったのである。

 光太郎の父への反発は、一方的なものであったことは、終生、父の光雲は光太郎のために援助を惜しまなかったことからも理解できる。

 光太郎は、みずからの個性を開花させ、西洋的な芸術家として生きるために、越えるべき高山としての父を敵視した。

 そして、西洋文化にふれることによって、日本という枠組みを超えていこうとした。

 留学はそのためのスタートとなるべきものだったが、光太郎の鋭敏な精神には、学べば学ぶほど、越えられない東洋精神と西洋精神文化の違いを意識せざるをえなかった。

 明治の文豪・夏目漱石がロンドン留学で、新しい文学思想にふれて、従来学んできた漢学的な教養との落差、その違いに精神の危機、アイデンティティの危機を迎えて、狂気の一歩手前まで追い詰められたことはよく知られている。

 光太郎の場合も、同じような経験をしているといっていいかもしれない。

 漱石と光太郎の違いは、光太郎が文人というよりも、彫刻家であったことだろう。

 要するに、光太郎は精神文化の彼我の違いに驚愕したことよりも、肉体の違い、骨格の違いに衝撃を受けたといっていい。

 立体的な彫刻を造り上げるためには、外形を重視し、そして、その肉体の持つ生命力までも再現しなければならない。

 伝統的な技術を順守する職人であるよりも、そうした伝統文化を破壊する強い野獣のような筋肉やパワーを持つ西洋芸術に、光太郎は精神では越えられないものを感じていたといっていいだろう。

 一時期、光太郎は絶望のあまり、西洋人にもなれず、日本人として伝統技能を継承する父の庇護のもとに生きることもできず、苦悩の中で生きていた。

 光太郎が、西洋芸術に単純に陶酔したり、その世界を肯定し、日本にそれを移植するだけの芸術家だったら、そんなに苦悩しなかっただろう。

 そのような光太郎が最終的に見いだしたものは、西洋でもなく、日本の伝統文化でもない、自らの新しい道、それを象徴したのが「道程」における自分で自分の道を造るという独立宣言であったのではないか。

 そして、それは父の光雲ではなく、自然というものを父とし、それに一体化して生まれ変わることだったのではないか、という気がする。

 自然の中で新しい道を自分で造る。

 それが「道程」だったのであり、また『智恵子抄』に表れた愛の形、自然の中で、生まれたての男女として生きる――それは聖書の創世記のアダムとエバのような存在として生きることを願った愛の表現だったと言えるだろう。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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