私はスマホで取材の撮影もするが、最近の機能がいいのか、デジカメと遜色がないほどきれいに撮れる。
むしろデジカメが古いので、シャッターが固くなって押してもなかなか切れなかったり、画質がいまいちといった感があって使えないことがある。
その意味では、スマホの進化には驚かされると同時に便利でますます手放せなくなっている。
スマホで撮影するといっても、ふだんはあまり写真を撮らない。
仕事中心である。
というのも、スマホで撮影してしまうと、かえって裸眼で見た印象が薄れてしまうからである。
撮影したからいいやと思うのか、その時のあたりの光景が記憶から抜け落ちてしまうのである。
そうでなくとも、もう撮影したから見なくてもいい、と思ってしまうらしい。
それで、スマホに撮影した写真を見返すのだが、そこにあるのは、鮮明だけれども、かえって不自然な記憶を呼び起こしているような気がしてくる。
記憶が鮮明なのはいいか悪いか、きっといいのだろうけれど、アイマイな方が何となく人間らしいと感じるのである。
それは認知症の一歩手前ではないか、と言われそうだが、私は忘れてしまうことは、本質的には要らないものだと思うことにしている。
忘れてしまって困るのは確かにある。
だが、忘れてしまうことにも、何等からの意味があると私は考えてしまうのである。
だから、忘れてしまったら、それまでで終わり。
ただ、そうすると、人間社会では人付き合いにおいて、アウトになるので、それなりに覚えておく必要のあるものは、反復しながら記憶するようにしている。
忘れてしまうのが当たり前と考えている。
考えてみれば、人間の脳というものには、細胞が生まれ死んでいく新陳代謝がある年齢になると、停止するらしい。
科学者ではないので、間違っているかもしれないが、脳細胞はある時期から死滅していくばかりになるようだ。
だから、記憶というデータを収蔵しているデータバンクの細胞も、その容量を超えていくと、自然に減少していくのが当たり前の過程なのである。
それに抵抗しようとすれば、脳を活性化する後天的な努力、記憶が消えないように、何らかの関連付けをしながら、覚えていくという作業と労力が必要となる。
それでも、年齢的に意識や思考力が老化していくのは心身の自然の流れであることは言うまでもない。
もちろん、それを豊富な経験や知識で補うことはできる面もある。
経験によって、それに対する対処法がわかって、適切なアドバイスをすることも可能である。
だが、若いときのような柔軟な発想、発見、創造性というのは、年齢を経ていると、できなくなる。
高齢者は、経験からのアドバイスはできるが、イノベーションなどの新しい発明は、不可能ではないけれど、若い時のような突飛で奇抜な発想ができにくくなるのである。
それは、年齢的に膨大なデータや経験を整理して、そこから知恵を学び、生き方の指針を得るように自然過程として成熟していくからである。
肉体が衰えていくというのは、それが自然だからであり、記憶が薄れて忘れやすくなっていくのも、自然だからである。
視覚から脳に膨大なデータが入り、それを振り分け、残す記憶と消す記憶を休みなくしているのが脳細胞である。
もし、そのインプットの作業が永遠に続くとしたら、脳細胞では収まりきれず、いつか臨界点を超えて爆発してしまうかもしれない。
そうならないように、せっせと貯め込んだデータを整理して、捨てているのであると考えた方が理論的である。
何事もキャパシティの問題がある。
そう考えれば、忘れるということも、ひとつの次の段階へ旅立つための準備のためということもありうるのである。
忘れることは、確かに不安になるのも間違いない。
だが、それが自然過程だとすれば、そのために準備することができる。
最近、エンディングノートなどが、よく取り上げられているが、それもまた一つの準備だろう。
若い時は、生きるために、自分が何者かを知るためにあがき、社会的な地位や名誉を得るためにがむしゃらに働く。
だが、そういうときは、自分の人生の本当の意味を考えるというよりも、こうあるべきという理想を掲げてそこに到達するために努力をする期間である。
だから、脳細胞が衰えていくことに恐怖を感じたりする。
忘れることは、認知症の一歩手前だと考えて、そうならないように抵抗する。
もちろん、それが間違っているというわけではない。
ただ、忘れることは、忘れなければならない、新しいものを受け入れなければならない、ということでもある。
新訳聖書のイエスの言葉に、「新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れなければならない」という言葉があるが、それは人生の入れ替えをそこでしなさいと言っているのではないか。
新しい人生は、信じるか信じないかは別として、死後の人生ではないか、と私は考えている。
(フリーライター・福嶋由紀夫)