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梅の花と国際的な万葉集の歌人たち

 冬空から薄暗い日差しが射している。

 地上は、冬の余韻を引いて灰色に染まり寒々としている。

 夏や秋に葉をいっぱい繁らせた落葉樹も、ことごとく葉を落して裸木となって立っているせいで、一層景色を寂しいものにしているといっていい。

 この時期、心を慰める花もほとんど見かけない。

 そんな中にも、いち早く春を予感させる花が原色の鮮やかな黄色の水仙であり、ほの白く、あるいは小さな火種のように可憐に咲く紅白の梅の花である。

 雪の残った中にも力強く黄色の花を咲かせる水仙は生命力の炎のように輝いているが、都会の川岸ではなかなか見かけることができない。

 その意味では、控え目に郊外の家や山里に咲く梅の花に心惹かれるものがある。

 冬の終わり、春を告げる花。それが梅の花と言えるかもしれない。

 冬の寒さが背景にあるせいか、紅白の梅が咲いているのを見つけるのは、なかなか難しい。

 梅の花はあまり目立たない。

 遠くから見ると、何か紅白の小さな綿のようなものがついているという感じで咲いている。

 決して華やかな花ではないけれど、静かな気配と凛としたたたずまいで、強い意思をもって咲いているというイメージだ。

 それこそ貴族や王族のような気品を感じさせるものがある。

 今では、日本全国でどこでも見かけられる花だが、実は日本が原産の花ではない。

 遣隋使や遣唐使などのような交流を通じて中国からもたらされた外来の花である。

 その外来の花である梅の花が、そんなルーツを忘れさせるほど日本に馴染んでいるものとなったのは、飛鳥・奈良時代や平安時代などの外来文化を尊んだ貴族文化が背景となって影響している。

 日本古来の歌集・万葉集にも、梅の花は盛んに詠まれたが、それは当時の官僚、知識階級の教養をもった文人たちが担い手だったからだった。

 その一部を紹介すると、つぎのような歌がある。

妹が家に咲きたる梅のいつもいつもなりなむ時に事は定めむ

妹が家に咲きたる花の梅の花実にしなりなばかもかくもせむ

梅の花咲きて散りぬと人は言へど我が標結ひし枝にあらめやも

我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る

春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも

うら若み花咲きかたき梅を植ゑて人の言繁み思ひぞ我がする

春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだふふめり

 万葉集ではよく知られていることだが、梅の花は日本を代表する桜を詠んだ歌よりも数が多い。

 梅の花を詠んだ数は120首だが、桜の花の歌はその半数ほどぐらいである。

 その意味では、万葉集の時代は平安時代のような内にこもった民族主義的な文化というよりも、海外の文化を取り入れた国際的な時代でもあったということができる。

 万葉集というと、日本国民の文学精神を体現した伝統文学といったイメージがあるが、実際は中国や朝鮮半島などの先進文化とのふれあいの中で生まれた保守的な民族文化と海外の外来文化の融合によって生まれたものである。

 その意味で、万葉集はグローバルな文化を体現しているといっていいのではないか。

 かつて第二次世界大戦の時に、民族精神を鼓舞する歌集として、学徒動員の学生たちが万葉集の文庫などを持って戦地に赴いたという記録がある。

 が、本当は伝統的な民族精神の歌集というよりも、国際的な交流の精神が万葉集には息づいているのである。

 そうした海外に精神が開かれていたから、国内においても、東国の庶民などの歌「東歌」なども収録するようなグローバルさがあったと言えよう。

 万葉集が庶民から貴族・天皇までも含んでいた歌集だったのは、そうした国際的な視野で当時の人々が海外と交流していたからである。

 庶民の歌が採用されなくなった平安時代の貴族文化は、確かに国風文化と言われるように民族的な魂を持っていたことは間違いない。

 その点から考えれば、民族主義的な歌集として、本来は万葉集よりも古今集や新古今集を挙げるのが正しいのかもしれない。

 ただ、それができないのは、古今や新古今は男らしい武士的な歌はほとんどなく、恋愛などの歌に終始しているからである。

 その意味では、戦意昂揚の歌として推奨ができず、軟弱なものとして退けられるしかなかったという事情があるだろう。

 その意味では、本来、梅の花は国際交流が盛んだった時代を象徴する花である。

 特に、海外の文化にあこがれた知識人たちが、外来の文化を象徴するような梅の花を好み、それを盛んに庭園などに植えて鑑賞し、それにちなむ和歌を詠む宴をたびたび行ったのである。

 よく知られているのは、九州の大宰府の長官として赴任した大伴旅人を中心とした筑紫歌壇である。

 この先進文化にあこがれたグループは、大伴家という天皇に仕えて来た武力面を担った一族である。

 その面では伝統的な保守勢力のように見えるが、実際には国際化の旗印を掲げた開明派であったことを知る必要がある。

 梅の花を詠むことを通じて、日本文化が国際化し、そして豊かな精神文化を天皇を中心として花開くことを目指していたということもできるかもしれない。

 そのことは、万葉集の編者だったと見られるのが、万葉集を代表する歌人の大伴家持であることをみれば理解できるといっていい。

 庶民から天皇までの歌を選んだのは、まさしく国際的な視野がその背景にあって、国民全体が一つになって国の舵取りをしなければならないという意識が根底にあったとも考えられるからである。

 今年は令和5年になるが、この令和という元号の元になったのも、梅の花を詠んだ序文にちなんでいることは注目すべきだろう。

 令和時代は、万葉時代にも通じるグローバリズム、国際平和を実現していかなければならないのではないか、という気がしている。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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