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春を迎えて 出会いと別れの季節

 桜の花も盛りを迎えた。
 春は出会いと別れの季節である。
 桜を見ると、かつての若い時代の出会いと別れのシーンを思い出す。
 それを象徴しているのが卒業式と入学式である。


 長年、付き合ってきた友人たちとの初めての別れ、そして不安な気持ちで迎えた新しい学友たち。
 寂しい気持ちと胸が膨らむ希望への期待、それは誰もが感じていることだろう。
 別れるから新しい出会いがあると思っても、なかなか納得できない不思議な気持ちだったことを覚えている。
 特に、郷土から高校を卒業して、東京の大学へ入学するために上京したときは、いったいどんな生活が始まるのだろうと、不安と憂鬱、そして、未来への期待が入り混じって、心の中があふれ、沸騰するようだった。
 大学に入れば、違った自分になれる、新しい自分をつくることができる、そして、社会へ羽ばたくというようなイメージを漠然と抱いていた。
 だがその夢はすぐに消えていった。


 私が入学した頃は、学生運動が激しかった時期だったので、大学のキャンパス生活も順調ではなかったのである。
 今では遠い記憶をたどるような感じではあるけれど、大学へ向かうと、いつも正門が閉ざされ、ロックアウトされていたことを思い出す。
 政治の季節だったが、私は当時の流行語でいうならば、「ノンポリ」で、政治とはかかわりを持っていなかった。
 というよりも、そうしたことに熱中できるような性格でもなく、「無気力、無関心、無感動」の三無主義の学生だったのである。
 今でいうならば、内向的で引きこもりの状態だった。
 もちろん、級友には高校時代から学生運動に走り、警察の監視を受けていたような学生もいたし、クラブの先輩には学生運動によって性格が変わり、投獄されて留置所生活を送っていた人もいた。
 そうした姿を見て、人は時とともに変わっていく、我知らずのうちに変化していくのだ、と思っていた。
 私が東京の大学に入りたいと思ったのは、こうした引きこもり的な状況から、東京という未知の世界に行けば、何かが変わるのではないか、漠然とした期待があったからだろうと思う。
 しかし、大学に入ったものの、次には何をしていいのか、何を目指すのか、何のために生きるのか、といった答えようのない思いに苦しんだことを覚えている。
 五月病という名前が付けられているが、私は4月ころからその病にかかっていた。
 下宿の狭い部屋に引きこもりながら、昼となく夜となく、時の過ぎていくのをぼんやりと感じていただけだった。
 ただ、桜の花の季節になると、大学へ向かう堀端は桜の名所だったので、花のアーチを潜り抜けるような浮遊感があって、それだけを楽しみにしながら通っていた。
 その時間だけが本当の自分の時間であるような気がしていた。
 周囲には、学生運動の主張をがなり立てるスピーカーの音が騒がしかったが、そんな殺伐とした雰囲気も桜の満開の中では夢幻のようだった。
 なぜ桜の花はこのように気持ちを浮き立たせるのだろうか。
 桜というと、武士の精神、いさぎよく死ぬ散り際が強調されるが、それは近世以降の国学などの影響が大きいだろうと思う。
 桜はもともと、そうした死をイメージさせるものではなかったという見方がある。
 むしろ古代人は、桜の花に生の極み、旺盛な自然の生命力のエネルギーや力を感じていたというのである。
 よく知られているように、桜は枝先から葉が萌える前に花が咲く。
 突然、葉から花へという自然のプロセスから違った飛躍をし、花が一斉に咲き乱れ、散るとともに葉が茂るようになっている。
 自然の摂理に反したような桜は、古代人にとっては、神秘的な存在に感じられたのだろう。
 むしろ、そこに自然をつかさどる神々の意思、メッセージを感じていたのである。
 神々の意思とは何か。
 それは自然を耕して、稲作をし、そこで食物を得て命をつないでいる人々にとっては、桜の開花が神々の予言のように思われたのである。
 桜の満開の姿は、まさに米粒が集まって豊かな実り、秋の収穫をそのままイメージさせる。
 コメが豊かに実るかどうかは、古代人にとっては生きるか死ぬかの問題であり、そうした人々の思いを汲み取って神々は桜の花々を咲かせてくれる。
 そう考えたのだ。
 類例のない珍しい自然の中の異常な例は、自然の摂理に反していると同時に、神々の意思の表れでもある、そう受け止めた。
 ただ美しいから花見をするのではなく、そこに未来の豊かな収穫の象徴を感じたのである。
 これを民俗学的には、あらかじめ未来を知らせる啓示といった「予祝」と表現している。
 何のことはない、秋の収穫祭を春に予言として祝うのが花見であると考えられていたのだ。
 それが日本人のDNAとして伝わってきているために、桜の花見は特別な儀式であり、行為なのだ。
 桜はそうした予祝として心をとらえたのだが、しかし、神々の意思は人間の知恵でははかり知られない。
 最初は豊作を予祝されていても、神々の気まぐれでどう変わるか、一年を過ごしてみなければわからない。
 そうした喜びと不安が、桜の季節を出会いと別れの季節として受け止められるようになり、日本人の心に精神的な心情文化として流れているといっていい。
 日本人は桜に人生の出会いと別れ、そして、一期一会の人間関係の寂しさとかけがえのなさを教えてくれる。
 だからこそ、花見をしないと、どこか春を迎えたような気がしない不安を覚えるのだろうと思う。
 ただ、コロナ禍の現在、花見の名所にみんなが詰めかけてしまうと密になって感染拡大になってしまうので、そのあたりは各自の良識に任せて自覚を促したい。
 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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