
よると触ると、コメの話である。
といっても、嫁さんたちの井戸端会議での話題だ。
あそこのスーパーが安い、いやちょっと自転車で行かなければならないが、業務用をあつかっている店の方が安いとかなんとか。
夫たる私も関心がまったくないわけではないが、こう女たちが姦しく話されていると、どうしても耳に入ってきてしまう。
なので、スーパーに飲み物などの買い物をしに行ったとき、ついいつもなら見逃して関心がないコメコーナーに目を向けてしまう。
確かに、それまでそんなに目立たなかったコーナーだったのが、今や少しばかり目立つ飾りつけで目玉コーナーになっているようだ。
見るともなしについ意識してしまう。
価格は確かに安くはない。
安くはないけれど、コメを研いで食事の準備をする嫁さんのような切迫した気持ちにはなれない。
作る側ではないからだろう。
それだけ嫁さんの手伝いをせずに、ひたすら食べるだけだった夫としては、いささか自責の念に襲われてしまう。
それこそ、仕事をしていればいい、だれのおかげでメシが食べられると思っているのか、とパワハラ夫のような立ち位置にいることに立っていることに気づくのである。
だから、コメ高騰の間は静かにしていようとひそかに思うのだった。
日本民族の主食だったコメをめぐっては騒動がたびたび起こっている。
江戸時代の米騒動はそれこそ命がけのものだった。
その点からいえば、令和のコメ騒動は平和であるといってもいい。
だが、私がコメのことで思うのは、日本民族の魂をつくってきたのは稲作のことであり、稲作によって日本の平和が築かれてきたということである。
もちろん、食糧が財産の重要な要素を占めていた時代には、コメそのものが命にかかわる財産であった。
そのためにコメが食べ物であると同時に、宗教的にも神聖視されているのは言うまでもない。
日本神話においても、稲作が重要な要素となっていることは、犯罪について定義しているところに出て来る。
大きな犯罪として天つ罪と国つ罪という分類があるが、もっとも犯罪として重いのは天つ罪である。
天つ罪は天孫族、すなわち日本列島に渡来した朝鮮半島系の人々の法理概念、その規定であっても、国つ罪はそれに対して土着の縄文依頼のネイティブな人々が定義されているような犯罪である。
神話の二重構造は多神教的な要素を含んでいるが、それよりも強固な絆を感じさせるものがある。
神々が支配、被支配関係というよりも、ある程度の協力関係としてつながっているという印象がある。
そこから想像をふくらませていくと、なぜ日本は天皇政権と武家の政権が並立して存続できたのか、というような日本独特の政治構造にもつながっていく気がする。
とはいえ、今問題にしているのは、神話時代における犯罪に対する見方が、現在のようなものではなかったことである。
そこには殺人ような刑事事件から民事事件、不倫や近親相姦のような性的な犯罪は稲作を妨げるような犯罪よりも重視されていないのである。
罪は罪だが、神々に対する不敬や反逆のような犯罪ではないとされているといっていい。
極端に言えば殺人よりも、稲作にかかわる罪のずっと重いのである。
畔を壊したりするような行為、田んぼを荒らしたりするような犯罪ともいえないような行為を厳しく断罪している。
これはコメが現在の人間が考えるような食物ではなく、神の魂と等しいものであったことが理解されるのである。
稲作を荒らすもの、邪魔するものは、まさしく犯罪どころではなく、神聖なものを破壊する行為だったのだ。
だが、これはよくよく考えれば不思議ではない。
命と等しいものが財産であり、貴重な存在になるからである。
現在は財産というものは、食べ物ではなく、金や宝石、お金などの抽象的なものの方が価値があるとみられている。
そうなったのも、文明の発達によって食糧生産が特殊なものではなく、もはや誰もがカネさえ払えば享受できる商品となったからである。
コメからカネへの価値の転換は、自然の豊かさを与えてくれるもの、雨や風などをつかさどる見えない存在(神様)といったものを軽視し、先祖を軽視し、親族や氏族を軽視し、親に対する感謝を失わせ、家族を分裂させる個人主義というものへの信仰が支配的になったといっていいだろう。
たかがコメ、されどコメである。
コメによって日本民族が対立ではなく共生という道を選び、単一民族的な伝統文化を生み出してきたことは言うまでもない。
だからこそ、嫁さんたちが騒いでいる令和のコメ騒動は、決して物価の問題と軽視してはいけないのではないか。
日本民族の核をなしているコメ文化の崩壊は、日本民族の魂の崩壊にもつながっている気がするのは私だけだろうか。
(フリーライター・福嶋由紀夫)