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万葉集の相聞歌という謎

 「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王)

 「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも」(大海人皇子)

 いずれも万葉集の有名な相聞歌である。

 なぜ古来より、こうした歌によるやりとりが必要だったのだろうか。

 日本の恋愛詩の伝統には、夫婦や恋人同士の愛をテーマにした「相聞歌」というジャンルがある。

 古代日本人の精神世界を示している歌集・万葉集にも、「相聞歌」があり、思いを述べあう形で、男女の愛の形を表現している。

 この相聞歌を読むと、現代の日本人でも理解できるような恋愛の世界が展開され、共感する人も多い。

 男女の愛、夫婦の愛は、時間を超えて人間存在の根幹にある感情であると言ってもいいかもしれない。

 万葉集には、様々な形の歌が詠まれているが、中でも特異なのが、死者の魂を悼む挽歌という形式である。

 挽歌は、ただ死者の魂を悼むということだけではなく、死者の生前の思いを慰め、称え、無事に死者の国に還ることができるようにという呪術的な歌でもある。

 この背景には、恨みを抱いて死んだ死者は、祟りをするという、古代人の死生観が反映していると見ることができる。

 死者はこの世から去っても、その祟りを生きている人間に成すことができるという思想があるといっていい。

 現代ならば、死者の祟りという現象はなく、残された生きている者の心理にある、死者に対する一種の罪悪感といったものが良心の呵責のように働いているに過ぎないと分析するかもしれない。

 ある意味では、葬送の場は、死者に対する負い目を感じてしまう、追憶や過去の出来事に囚われる場といってもいいかもしれない。

 いずれにしても、こうすればよかった、ああすれば良かった、などと思う心理は、死者に対する贖罪意識に根ざしている。

 この背景には、死というものがこの世から死者を切り離して別個の存在になる、あるいは二度と交わることがない無になってしまうという考えがあるといっていいだろう。

 ならば、盛んに挽歌を作った古代人は、死をそのように見ていたのか、という疑問が浮かぶ。

 おそらく、現代人のように死をまったく無となるものとは考えなかったであろうことは間違いない。

 ただ、死者の世界と生者が生きている世界は、隔離されていて、その間をつなぐ橋のようなものがあり、それを渡るためには、恨みや哀しみなどの生前の思いを晴らさないとそれを渡ることができないと思っていたようだ。

 祟りを成すことができるのは、恨みによって死者の世界に渡ることが出来ず、この世をさまよっていると考えていたのである。

 だからこそ、死者のために挽歌を詠むことは決して、ただ故人を偲ぶことだけではなく、死者の生前の恨みを晴らすという呪術行為でもあったのではないか。

 そのような意味からすると、相聞歌も現代のような男女の恋愛と同じようなものであると、理解することは早計であるかもしれない。

 そこには、何らかの呪術的な意味が込められていたと考えることもできるからである。

 基本的には、男女の愛の成就は、神々の祝福であり、万物の豊穣とも深いかかわりを持つものと考えられていたことは十分にありうることである。

 結婚によって子孫が生まれてくることは、自然の中で育てられた作物の豊穣でもあるという考え方である。

 男女の愛が、そのまま天地万物の様相と相関しているという見方ができるとすれば、現代人の個人と個人の出会いと別れのような恋愛とは違った背景があるといえる。

 すなわち相聞歌は、個人の言葉の掛け合いだけではなく、その背景の一族や祖霊などの関わりがあるがゆえに、歌によって周囲、先祖をも納得させなければならないという行為でもあったのではないか。

 これは極端な見方かもしれないが、恋愛と結婚が個人の出来事だけではなく、背景の一族の存亡や繁栄に繋がる行為でもあったと見ることができよう。

 もちろん、相聞歌には、多様な作品があり、男女間だけではなく、親子や兄弟姉妹などとの掛け合いもあり、恋愛感情という点からみれば、男女間だけのものではないという指摘もできる。

 だが、家族間の相聞歌であっても、それは現代人が考えるような家族愛といったものではなく、祖霊や氏神、神々の加護も含めた繁栄を願う呪術歌であった気がする。

 恋愛感情だけではなく、強い絆を持った家族間の感情の確認でもあったのだろう。

 そして、相聞歌は、概ね家族間よりも恋愛対象とのやりとりの方がほとんどだが、それはあまり言葉の掛け合いが必要ではない家族とは違った存在であるからである。

 相聞歌によって、言葉の橋を架けなければならないからこそ、歌によって相手との精神的な絆を築くという面があったのではないか。

 そうした架け橋が相聞歌であり、やりとりであり、歌が言霊として感情の発露として自然と感応する。

 言霊は、相手の魂を揺るがせる言葉の祈りであり、植物の成長と実りをもたらす肥料でもあり、光合成を促す水や太陽の光のような存在である。

 恋愛の成就は、そのまま神々の祝福のための豊穣祈願の成就でもある。

 万葉集時代に、盛んに恋愛や恋の歌が詠まれたのは、それが挽歌のように、呪術的な側面を持っていたから。

 では、そうした呪術歌であるならば、愛の対象である相手への個人的な恋慕の感情や恨みや嫉妬の歌が詠まれるのか。

 このことは個々人の感情がそのまま嵐や日照り、風水害などの自然の気象などに通じていると考えられたからである。

 その意味では、相手は同じ人間であるけれども、その背景には多くの祖霊や神々がついているので、その心をなだめ、喜ばせるという歌の思いが、そのまま農耕や家の繁栄、一族の隆盛へとつながるから。

 そして、その破局は、個人同士の破綻だけではなく、背景の一族の家系の盛衰にも関わって来る凶事となるからである。

 だからこそ、相聞歌の言霊によって、相手の恨みを解き、そして和解するという側面があったのではないかと考えている。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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