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セミたちの饗宴の終わり

木に捕まるクマゼミ

 このところ、夕方には散歩をしているのが日課となっている。

 散歩コースとしては、近所を歩き回り、途中折り返し地点になる私鉄沿線の駅にある喫茶店で一休みして帰って来るというもの。

 近所とはいえ、案外知らない所が多い。

 意外と近くに田畑があったり、公園があったりしていて、自然が身近に感じられるので気分転換にもなっている。

 飽きっぽい性格なので、散歩時間は短い。

 よくジョギングや散歩をしている常連のような1時間近い散歩はしていない。

 散歩という義務的な運動になってしまうからだ。

 時々、ジョギングをしている老若男女の人々に会うが、どこか表情が必死な感じがあって、それもちょっと嫌だった面もある。

 コロナ禍以来、家でのデスクワークが中心になり、引きこもり生活が多くなったので、運動不足のせいか、体が少し重い。

 そんなこともあって、自分でできる範囲で、軽めの運動をしなければならないとは思っていた。

 歩いていると、今まで気づかなかった風景の細部が見えてきて、それも面白い。

 最近では、畑で植えられている野菜やヒマワリのような花の生長と実りの様子が魅力的に見える。

 最初は土だけだったものが、芽を出し、葉が繁り、そして花が咲く。

 毎日見ていると、少しずつ変化していくのがよく分かって、植物の生命の不思議さが伝わって来るのだ。

 それとともに、都会でも、様々な生き物が生息していることにも気づかされる。

 セミはもちろんだが、チョウやトンボなどもよく見かけるようになった。

 そのセミは、大きな声で鳴くので、田舎の夏が思い出されて懐かしい気持ちになったことを覚えている。

 生息個体数はそれほど多いとは思わないが、つんざくようなセミの歌声は、いかにもここに自分が存在しているぞという強い主張がある。

 少数であっても、セミは声によって存在感を増している。

 もちろん、セミにとっては成虫になってからの生命が短いので、短期間のうちにメスを呼び寄せて子孫を残さなければならない。

 彼らが必死なのも、仕方がないといっていい。

 そうした面からみれば、セミの声は夏の盛りの音楽というよりも、命の悲しい歌声にも聞こえて来るのである。

 ところで、最近は、そのセミの死骸を散歩の途中で見かけることが多くなった。

 舗装された路上で、仰向けになりながら空を見て、祈っているような姿。

 そう感じるのも、セミの六本の脚が一つにからまり、まるで、手を合わせて何かに祈っているように見えるからだ。

 しかも、他の昆虫の死骸とは違って、外形は生きている時と、そんなに変わらない姿をしている。

 まるで生きているかのようなセミの姿は、そのまま路上に散らばっているだけだ。

 こうした虫の死骸を片づけてくれるのはアリたちだが、舗装された道路には巣作りが難しいので、そのまま放置されていることが少なくない。

 もちろん、路上をはい回るアリを見かけることはあるが、おそらく絶対数が少ないので、田舎に住んでいた時のように虫の死骸をすぐに片づけることができないのだろう。

 いつまでも路上に横たわっているセミの死骸は、どこかプラスチックのような無機質さを感じさせるものがある。

 都会の人工的な環境の中で、生老病死という命の連鎖、サイクルで完結できずに、昆虫はどこか死にきれないといったイメージだ。

 ところで、セミというと、思い出されるのが古代に記されたイソップの寓話集だ。

 子供向けの話になっているが、その実、人生訓や風刺、そして、ある意味では、哲学的な知恵を与えてくれる。

 主に、登場するのは、擬人化された動物たちだが、アリやセミなどの昆虫の話もある。

 セミとアリがテーマの寓話。

 それが、「アリとキリギリス」の原話となった「セミとアリ」の話だ。

 冬の一日、蔵にため込んでいた食糧の穀物を乾かしていると、そこに腹をすかせたセミが訪ねて来る。

 セミは、食物を少し恵んでほしいというと、アリは逆に夏の間、何をしていたのかを質問する。

 セミは怠けていたわけではなく、歌を歌っていたというと、アリは、「なら冬には踊るがいいさ」と恵むことをぴしゃりと断る。

 基本的には、日本に伝わっているストーリーとほぼ同じだが、主役であるセミがキリギリスに変わっていることが違う。

 これはイソップ寓話がヨーロッパに伝わる際に、セミがあまりなじみがなかったので、キリギリスに意図的に変えられたためである。

 やはり翻訳上、読者の環境、どのような生物が生きているかによって、理解度が変わって来るのはやむを得ない。

 セミとキリギリスはそのために入れ替わった。

 それは仕方がないが、原話の持っている味わいが変わって来るとは言えそうだ。

 「セミとアリ」(「アリとキリギリス」)は、基本的には娯楽よりも労働を推奨したり、働かざるもの食うべからず、といった教訓が込められていると見られている。

 もう一つ、別な見方をすれば、人間というものは自分とは違う存在に対しては差別し、排斥するというメッセージにもなるといっていいだろう。

 異民族排斥といったものである。

 もちろん、こうした見方ができるのも、それだけイソップの寓話が多様な読み方ができる構造をしているからである。

 イソップの実在性については、いろいろな説があるらしいが、よく知られているのは、奴隷であったのがこの寓話集の功績によって解放されたという伝説がある。

 その真偽は分からないが、短い寓話には、教訓というよりも、読者に考えさせるものが多いといっていいだろう。

 子供向けの寓話というのは、後世のわれわれの錯覚かもしれない。

 大人にこそ読まれるべき、人生を考えさせる本だったではないか。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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