記事一覧

クリぼっち、おひとり様、ポツンと一軒家

 これを書いている時点は、クリスマスを終えて大みそかに向かっている慌ただしい、しかし、何か心が鎮まるような気持ちになっているある日のこと。

 正月に向けての仕事を終えてややひと段落しているので、ぼんやりした気分がある。

 振り返れば、今年一年、さまざまなことがあって、激動の時代だったことを改めて思うが、まだ整理がつかない。

 そういえば、年末に向けての大イベントだったクリスマスも、いつもとは違って何の準備もなく終わってしまったという印象だ。

 かつては、家族そろって、あるいは知人や恋人と一緒に過ごす特別な日というのが定番のイメージだった。

 が、今年は一人で過ごすという「クリぼっち」という言葉をよく聞くようになった。

 クリスマスのクリと一人ぼっちのぼっちを組み合わせた言葉である。

 要するに、家族や恋人と過ごすよりも、一人だけで過ごすクリスマスという意味だ。

 クリスマスを一人で過ごすというのは、これまではマイナスのイメージしかなかった。

 しかし、この「クリぼっち」というのは、むしろプラスイメージとして理解されているようだ。

 クリスマス商戦でも、家族用ではなく一人用のケーキなども盛んに飾られているのを見かけた。

 それだけ、時代が家族や知人友人、そして恋人と二人で過ごすよりも、一人だけで祝う、一人だけでも楽しめるという価値観に変化してきているということだろう。

 この背景には、個人主義的な価値観、集団主義から核家族へ、核家族から個人主義へ、民主主義の悪しき孤立的な強欲資本主義へという流れがある。

 自分だけが楽しめればいい、誰にも迷惑をかけていないので、問題は何もないという考え方だ。

 もちろん、自分個人を主体として考えれば、その考え方は間違っているとまでは言えないが、絶対的に正しいとも言えない。

 なぜなら、人間社会は個人だけで成立しているわけではないからだ。

 個人の自由といっても、それは様々な関係の中での限られた自由であり、それが永遠なものでも、絶対的なものでもないことを知らなければならない。

 個人が自由を謳歌できるのも、家族、社会、国家という枠組みの中で生きているからであって、そうした囲いが無くなれば、個人の自由が侵害され破壊されてしまう。

 そのあたりは、ロシアのウクライナ侵攻によって、引き起こされた戦争、そして個人の自由が無くなれば、どうなるかという事例を示していることを考えればいい。

 極端過ぎる話かもしれないが、個人主義的なものは、そうした囲いの中でこそ謳歌できる主義という限界があるということだ。

 一人の存立を支えるための複数の要件が存在しているのである。

 たとえば、一人だけの幸福を追求するためには、それを成立させる経済的な余裕、社会的な安定、国家が自立し植民地化などという状態がなされていないこと、そして、全体主義的な体制でないことなどの条件が必要である。

 そして、そのような状況を維持するためには、その国家が健全な政治と政治活動、社会体制、インフラが整備されていなければならない。

 そして、それは絶対的な持続を意味しているのではなく、戦争や社会の激変などによって、もろくも崩れてしまう砂上の楼閣という側面を持っている。

 クリぼっちという個人主義的な考えが成立する背景には、そのような社会・国家の安定が必要条件としてあるということである。

 それを拡大すれば、今の日本が比較的に安定した社会であり、国際情勢の中で、自由主義圏と社会主義圏(共産主義圏)の共存や対立的な構図の中で、アメリカや韓国などと共同で軍事的な面を含んだ協定を結んでいるからである。

 クリぼっちという考え方と共通するものに、おひとり様という人生観がある。

 家族から離れて一人で生活し、そして生きている間は個人の幸福を求めて誰ともあまり密接な関係を持たない。

 わずらわしい家族や社会、国家などの関係と距離を置いて、個人主義的な生き方を推奨するもので、これは戦後民主主義から生まれた側面でもある。

 よく言われていることだが、日本が軍国主義的な国家として再生しないように、その根幹であった家族主義的な体制、そして、地域共同体の核であった神道の解体というGHQ(連合国軍総司令部)による戦後の占領政策があると指摘されている。

 それによって日本の伝統的な価値観が崩れてしまったことも確かであるが、それまでの体制が個人の幸福を抑圧してきた面もあったので、それからの解放ということでは、決してマイナスだけではなかった。

 ただ、極端になってしまった原因には、国家と個人を天秤にかけて、個人というものに価値の多くを傾けてしまったことがあるといっていいだろう。

 個人と国家社会などの関係は、どちらが重要か、という選択の問題ではなく、どちらも存立するためには重要であり不可欠であるというバランスの問題なのである。

 個人が存在するためにはその周囲が重要で不可欠であったように、個人の幸福は家族や社会全体と連携し、そして緊密に結びついていることが重要である。

 そして、個人主義国のアメリカがなぜ崩壊せずに存立しているかは、その背景に社会国家を維持させるキリスト教精神が存在していることが大きい。

 すなわち、国家における背骨が強くあることによって、無秩序でアナーキーで暴力的な社会になってしまうことを辛うじて防いでいる。

 銃社会であるアメリカは、それによる犯罪や事件などが多発していることで、アナーキーな暴力社会としか思えない人もいるかもしれないが、それよりも国家として維持するだけの良識、宗教的背景、倫理的な規範がきちんと機能していることを見なければならないのである。

 日本がアメリカよりも危うく見えるのは、こうした背骨に当たる宗教的なバックボーンが脆弱で倫理的な精神が希薄なことが挙げられる。

 最近、テレビで、「ポツンと一軒家」という番組の人気が高い。

 この周囲から孤立したように見える一軒家も、実情は孤独に存在しているのではなく、周囲の村や町と連携しながら維持されていることを視聴すると、よく理解できる。

 結果的にポツンと孤立しているように見えるのであって、共同体である社会や国家から離れているわけではない。

 そのようなことを思うと、クリぼっちやおひとり様という考え方は、改めて再考しなければならなと思うのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

関連記事

コメントは利用できません。