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『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』 (1)秀吉の朝鮮侵略を越えて

 豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役、韓国では壬辰倭乱という)により、朝鮮は甚大な被害を受けた。もちろん、日朝間の国交は断絶した。秀吉の野望から始まった大義名分なき侵略戦争は、1598(慶長3)年8月18日、秀吉の病死で終わる。
 7年間に及んだ秀吉の侵略の足跡を、年表でたどると、以下のようになる。

1592年
4月 壬辰倭乱(文禄の役)勃発。釜山・東萊、陥落。忠州も陥落
5月 秀吉軍、都・漢城(現ソウル)を占領。国王・宣祖、義州に避難
6月 秀吉軍、平壌占領

1592年
7月 李舜臣、閑山(ハンサン)島で大勝
7月 加藤清正、咸鏡道で2王子(臨海君、順和君)を捕虜に
10月 金時敏、晋州で大勝

1593年
1月 朝鮮・明国連合軍、平壌を奪還
4月 都を収奪
6月 秀吉軍、和平を提議(撤収開始)
10月 宣祖、都に帰還

1594年
2月 訓練都監を設置

1595年
6月 火砲・鳥銃を製造

1597年
1月 丁酉再乱(慶長の役)
8月 秀吉軍、全州を占領
9月 李舜臣、鳴梁(ミョンリャン)で大勝

1598年
9月 秀吉軍、撤収開始
11月 李舜臣、露梁(ノリャン)海戦で戦死
12月 秀吉軍、撤収完了


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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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