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黄七福自叙伝「団長選挙に敗れたこと」

 

黄七福自叙伝64

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第5章 在日同胞の将来を考えつつ

団長選挙に敗れたこと

一九七九年四月、民団大阪本部講堂で、第二十五回定期地方委員会が開催され、新年度の活動方針案として

①団務執行上の秩序確立、財政運営の合理化

②団員と連結しながら緊密化を図り総和体制の挙団的定着推進、組織幹部研修・養成の強化、朝総連系在日同胞の母国訪問推進

③韓日親善の推進、平和統一促進運動の展開

④差別撤廃運動の展開、消費生活協同組合の設立

⑤民族教育実施の強化、統一祈願、民族祭典開催

⑥民団大阪三十年史発刊、機関紙事業の充実・強化

⑦青年会末端組支部の結成

などが可決された。

続く、第四十三回定期地方大会で三機関長の改選が行われ、私と金皓一(前議長)、徐永昊(元副団長)が団長に立候補を表明、三ツ巴の選挙戦となった。

実績の面から私が選出されることは八〇パーセント以上確実と予想されていたし、ある筋の調査でも私が七で、徐永昊は三だった。

しかし、蓋を開けてみると、徐永昊が百七十一、私が百十二、金皓一が九十という結果になり、徐永昊の当選となった。

選挙中、票がカネで買われているという噂を耳にしたが、そのときカネを使う必要がないと判断した。

政策で勝てると信じ、代議員の良識を信じて、清潔な選挙戦を貫いた。しかし、敗北するという結果になった。富士の社長は、「もう民団は信頼できへん」と怒っていた。

なお、議長には百九票の白丁赫が百七票の卞先春、六十票の崔鳳学、四十八票の張徳日、三十九票の朴玄をおさえ、監察委員長には百十七票の辺基柱が、百十五票の姜熙痒、六十三票の張起説、五十六票の姜太和をおさえて当選した。

黄七福団長時代に民団の流れが変わり、日本社会に認知されたと、そして民団が一番光り輝いていたと言ってくれる人もいるが、それは第三者が評価することで、ただ言えることは、とにかく必死でやったということだ。自分ながらよくやったと思う。

私が団長のとき、富士の社長から、民団会館を立派に建て替えるようにとの進言を受けていたが、ほかの仕事が山積していて、思いだけで終わってしまった。

徐永昊団長のときに念願の民団会館が完成し、大阪韓国人会館と命名されたが、そのときは一九八八ソウルオリンピックの募金と重なって大変だった。

幸い、バブル経済のカネ余り期にあったおかげで、両方とも目的を達成することができた。

私も裏方として、会館建設の早期建設を進言し、尽力した。

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