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身体感覚と老化現象


 高齢者と呼ばれる年齢になると、身体の不調を嫌でも知らされる。

 たとえば、足腰の弱体。ふつうに歩いているつもりでも、何もないところでつまづいたり、歩行速度がかなり若いときに比べて衰えていることをすぐに後ろの人(若者)に追い越されてしまうことで自覚することになってしまう。 

 その背中を見据えて、なにくそと思って歩行速度を上げても、なかなか追いつけない。足腰が弱り一歩の歩幅が短くなっているのだ。

 もちろん、頭頂部の髪の毛も薄くなり、あっという間に禿(はげ)の部分が多くなる。その上、白髪も増え、鏡を見たり、写真を見ても、「ああ、これはもはや老人だなあ」と思ってしまう。

 しかし、外見はそうだとしても、精神はそれと乖離(かいり)していて、ずっと若い気分でいることが多い。だから、こうした身体の不調や外見のギャップに自分自身納得できずにいる。

 ところが、その老いを嫌でも感じさせる、意識させられる出来事がある。電車に乗って立っていると、若者に座席を譲られるケースである。これには参ってしまう。

 というのも、本人は席を譲られるような老人ではないと思い込んでいるからである。それで、「いや、いいです」と断ってしまうことが多い。

 そうすると、そこにちょっと気まずい空気が流れる。自分としては、当たり前の断りであっても、席を譲ろうとした若者の方は、途方に暮れたような表情をしていたりするのだ。

 これが韓国のような長幼の序がはっきりしているところならば、そう気まずい思いをしなくても済むかもしれない。

 韓国ならば、高齢者に席を譲るのは、当たり前の儒教文化が背景にあるからである。老人が断ったとしても、それはそうした矜持を持って生きているという姿勢であると了解してもらえるだろう。

 もちろん、こうした美徳も失われつつあるという声を聞くけれども、基本的にはそうした道徳文化が伝統精神の背骨となっていたことは間違いない。

 ところが、日本では電車にシルバーシートを設けているように、そうした精神的文化は失われてしまっている。シルバーシートがあるということは、それを設けなければならないほど、敬老精神・文化が衰退しているということだろう。

 すなわち、日本では、まだそれをするのが当たり前という道徳精神が育っていないというか、学校教育で学ぶ機会がないのだ。

 それは家庭教育がするべきだといっても、日本の家庭は核家族化によって、祖父母と一緒に住むような形態が無くなっているので、高齢者との生活をしていない。よって、たとえ、家庭教育で学んだとしても、それは実感の伴わない観念的なものになっている。

 だからこそ、なかなか高齢者には親切すべきだ、席を譲るべきだ、と心の中で思っても、それを実践するまでの勇気がない。良心的な若者であればあるほど、その葛藤は大きいのである。

 それで、高齢者が立っている場合でも、席を譲るかどうかで、心の中で葛藤し、どうしたらいいか、ウジウジ悩んでしまう。

 もちろん、老人にすぐに席を譲る若者を見かけることもあるが、それはやはり祖父母など大家族で育ったという背景のある若者ではないだろうか。

 こうしたものは、教えられて自然にできるものではない。心の中の思いと行動が結びつくためには、生活の中から習得するしかないのである。

 こうしたことで思い出すのは、親の愛を受ける機会がほとんどなかった子供の例だ。自分が親になったとき、自分の子供をどう愛していいのか、わからずにいるというのは、それにあたるだろうか。

 割合よく知られているエピソードとして、孤児院などで育った子供が親になったとき、子供が喜ぶのはお菓子やおもちゃを与えることだと思い込んで、何か事あるごとにプレゼントし、子供をただ見つめているだけというものがある。

 要するに、スキンシップや愛情を込めた親子の生活がほとんどなかったので、自分がうれしかったことは何かをプレゼントをもらったことだったので、同じようなことをしてしまうのである。

 人間の情緒が育つためには、親がいなければならないが、それは愛情の偏りがあったりすると、いびつな大人になってしまうことがある。

 母親の愛情が過多で過保護だと、わがままで、自分のことを客観的に見ることができない大人になってしまうことがある。

 また、親から虐待された子供は、自分が愛されていないという不安感と何事にも自信をもてない精神的に弱い社会不適応の大人になったりもする。

 その意味で、社会生活を正しくするためには、親だけではなく、祖父母とのふれあい、スキンシップが重要なのである。

 親子関係は、どうしても逃げ場がない関係になるが、祖父母となると、そうした緊密な関係ではなく、どこか開放的な関係になるので、そのふれあいによって、世間や社会の予行演習のような意味合いもある。

 親や祖父母の愛情を受けることのできる環境をどのようにつくっていくか、それが現代の教育の問題点を解決するひとつの方法であると愚考するのだが、どうだろうか。

 もちろん、こうした問題は一方的な見方では解決できない。労わられる高齢者の方も、現代では問題になっているケースがある。

 突然、暴力をふるったり、怒鳴ったり、怒ったりする老人が増えているのだ。「暴走老人」という言葉もあるように、現代の問題は、若者だけではなく老人にも及んでいるのが難しいところである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)


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