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続・神に魅入られたシャーマン


 

続・神に魅入られたシャーマン

 なぜ神はメッセージを伝えるシャーマンであるユタを選ぶとき、その人の人生を強力な力によって変えさせてしまうのだろうか。

 幸福な生活を捨てさせ、あるいは、幸福な生活が崩れて転落し、自殺さえ思うような追いつめられた境遇に向かわせるのだろうか。

 この本、谷川健一著『神に追われて』(新潮社)を読むと、神に選ばれるということは、必ずしも本人にとってありがたいことばかりではないケースが多いようだ。

 自分のやりたいと思っていた仕事をして満足している人生や夫と子供に囲まれた不満のない生活をしているのに、そこに、ある日、神からのメッセージというか、ユタになることを啓示されてしまう。

 神の命令は絶対的であるので、逆らうことはできないが、そのユタになる期限を延ばしてもらうことはできる。だが、いつかは現在の境遇を捨てて、神に仕えるシャーマンにならなければならない。

 その恐怖で生きた心地がしない候補者もいるほど。

 しかも、選ばれるまで、誰も自分がその候補者であることはわからない。

 そして、選ばれても、その修行や神事の勤めによって、一時気がおかしくなるような試練に遭い、また相談者のさまざまな因縁を引き受けて、みずからも病気になったりおかしくなったりする可能性もある。

 もちろん、この「神に追われて」の場合は、沖縄のユタという限定はつくのだが、先回記したように、神は西洋的なゴッドではなく、多神教的な先祖神である。

 だから、ユタの言う「神」は、神といっても、先祖が子孫に何かを託すために神となっているという可能性も否定できない。

 おおよそ世界の神のメッセージを伝えるシャーマン的な宗教者は、こうした現世での幸福な生活から転落させられ、最底辺の苦悩や境遇を通過させられることが多い。

 日本における教派神道の大本教などは、その代表的なものだが、教祖(開祖)の出口なおは、豊かな家だったのが、夫の放蕩によって貧乏の極みのどん底まで突き落とされる。

 その夫はかけ事によって身を滅ぼすのだが、「神さまが自分にそうしろと言っているのだ」という奇妙な言い訳をするのだ。

 だから、家のものをあらゆるものを持ち出し、かけ事をし、借金の負債で一家離散のような状況をもたらした。しかも、死ぬ前に、「これで神さまの願いを果たしてせいせいした」と言い残す。

 そこから悲劇が始まり、子供が狂気に襲われ、またなお自身も異言を吐き、狂ったと思われて座敷牢に閉じ込められてしまう。

 なおは、その暗闇の中で、神が啓示する言葉を理解できないまま、柱などに書きつけ、それがのちに「お筆先」という大本教の教典・予言書となるのである。

 すなわち、現世においてのすべてを捨て去り、死の一歩手前まで追いつめられた時、神の顕現や働きが現れる。

 幸福な時ではなく、不幸の時に、神はユタに現れて、その意図や願いを示すのである。

 『神に追われて』のユタは、様々な試練を経て、「おまえはすべてに合格した。おまえは人助けをやらねばならない」と使命を述べる。

 一方的な試練を与えた後に与えられた言葉であるが、その前はユタの候補者はユタになるのが嫌で、神の声を無視して、豆腐屋をやり失敗、その後次々と事業が失敗、泥棒に売り上げを盗まれ、父が手術で死に兄もハブにかまれて死ぬという不幸の連鎖を経たのちに、神に「おまえは何人殺したら気がすむのか」となじられて、仕方なく修行の道に入り、そのあと、神の合格という言葉が告げられたのである。

 このような神から追いつめられて、ある意味では、絶体絶命の境地になって、死なないで生きるために、ユタという役割を引き受けるといっていいだろう。

 「彼女らに共通しているのは自ら求めて神の道に入ったのではなく、むしろ自分の意志に反して、神の命ずる道に進まざるを得なくなったということである」(『神に追われて』)

 続いて、谷川は、このことはキリスト教の伝道者パウロにも共通することであると、指摘する。

 自分の意図に反して、キリスト教の迫害者から突然になった盲目という試練を経て、神の願うキリスト教の護教伝道者となったことを意味しているというのだ。

 しかも、それは荒野における悪魔からの試練を受けたイエスの歩みと似ているというのである。

 こうした神の選びは、一方的であり、かつ選ばれた者が神の恵みという歓喜とともに、それ以上の苦難の試練を受ける道でもある。

 なぜこうした苦難の道を神は歩ませるのか。というのは、神学的な問題になるので、言及しないが、ただ神が自分の言葉を伝えるときに、ユタのようなシャーマンに試練を与え訓練することは、人間自身の問題というよりも、神側の問題があるとみていいのではないか。

 先回、神はユタ候補者に現れるとき、人間を試験するためにぼろぼろの乞食の姿でやってくるという谷川の指摘があった。

 それは人間の信仰を試すために、試験のための仮の姿であると谷川は考えていたようだが、それは本当には試験のためではないのではないのだろうか、という気もする。

 神自身が霊的にそのような姿をしている、そのようなぼろぼろの立場にあるということを表して、そのような神の本質を理解させるために、ユタのようなシャーマンに苦難を味合わせることを通して、神側の事情を知らしめる、というようなことがあるのかもしれない。

 神が人助けを願いながら、その使命を託す相手は神と同じ心情圏、ぼろぼろの乞食のような心境にまで落ちて、苦悩を味わった者でなければならない。

 宗教には、そうした、一種の逆説的な信仰の道というものがある気がするのである。

 すなわち、現世の幸福を捨てて不幸を味わい尽くすことは、現世の幸福を捨てたのではなく、あの世の幸福を選ぶための通過点であるという考え方もできよう。

 神の選びというのは、現世の成功を約束するものではなく、むしろ苦悩を引き受けること、それによって多くの人々を救うということではないか。

 とはいえ、こうした神学的な考察は、私の手には余るので、これ以上は論じないが、ただ、旧約聖書や新約聖書を通して、神に選ばれた預言者やイスラエル民族(選民)が、幸福な道ではなく、むしろ苦難と受難の道を歩む路程を歩むのをみると、こうした苦難というものの本質が見えてくる。

 苦難の果てに何があるのか。

 ユタというシャーマンは、神のメッセージを伝えるために、神によって苦難の道を歩ませられるのだが、それは必ずしも不幸な道とは言い切れないかもしれない。

 谷川の小説スタイルの聞き書きには、そうした思いを抱かせるところがある。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)


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