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本来の姿は、神に祈るか、神を祈るか?


 

 今でも気になっている文章の一節がある。

 それは、民俗学者の谷川健一が何かの本で引用していた、同じ民俗学者で歌人の折口信夫の「神を祈る」という言葉について解説していた文章である。

 折口は、「神に祈る」ということは間違いで、「神を祈る」ということが本来の姿だったと言っていたらしい。

 といっても、谷川がどのような解説をしていたかは今では記憶があいまいなので定かではない。

 なので、自分なりに感じたこと、考えたことを自由に書いてみたい。

 おそらく、神に祈るということは、何かを神に願いご利益を得るための行為だが、それは本来の姿ではなく、人間の側が神の健康と力の復活を祈るというのがもともとの祈りの姿であった、というようなことだったと思う。

 ふつうは神の全能性、あるいは超越的な能力を祈り願うことで引き出して、その超能力の一部の加護を得る、ご利益を得る、ということが祈る行為だと考えていたので(これは日本人ならば当たり前のことだろう)、人間の方が逆に神のことを気遣って祈らなければならないというのは、実に奇妙で論理矛盾な言葉だと当初は思っていた。

 それで、今でも不思議に感じているが、ただ、この折口の考え方の背景には、西洋的な神(ゴッド)といった創造神ではなく、日本の多神教的な神々の世界、信仰観があるのではないかと感じている。

 要するに、日本の「神」は、キリスト教などの「神」と名前では類似しているが、まったく別物というべき概念であるということだ。

 日本の神は、八百万(やおよろず)の神というように、そこいらじゅうに神があまねく存在している。それこそ、神でないものがないほど、自然万物に神を感じているといっていい。

 そして、この多数の神々の中には、人が死んだのちに神になるという概念、そして、子孫を守る先祖神というものがあるということ。神々の中には、そうした生前は人間だったが、死後、神になったという例は数多い。

 有名なものは、天神になった平安時代の文化人の菅原道真がいる。藤原氏との政治的争いに敗れ、失脚して、当時辺境だった太宰府に左遷されたことはよく知られている。

 この左遷が冤罪であったために、恨みを呑んで道真は死んだ(餓死したという説もある)が、その後、藤原氏などに祟り、様々な怪異を起こしたために祟り神として恐れられ、死後にその位を進めて追贈して霊を慰め、ひいては神にまで祭り上げたのである。

 恨みの霊を自分たちの神に祭り上げるというのは、日本的な宗教観といえそうだが、それだけいいことでも悪いことでも何か威力のある存在に対して、恐れると同時に敬うという例は、人間に限らず、自然の山河や樹木、オオカミやキツネなどの動物にも神や神の眷属(けんぞく)として祭っていることからも理解できる。

 この信仰観は、シャーマニズムやアニミズム的な精神が感じられるが、それと同時に、自然と調和して生きていくという平和思想にも通じることがあり、日本民族の単一民族的なアイデンティティーを形成しているといえそうだ。

 それはさておき、折口信夫が言っていた「神を祈る」という概念は、こうした日本人の神観の中の先祖神(祖霊)という部分に対応している気がする。

 要するに、折口の言う「神」は西洋的な「ゴッド」ではなく、死後、神になった人間(先祖・祖霊)のことを意味し、その加護を受けるためには、祖霊信仰・すなわち先祖を祭り、その権能を発揮してもらうために「元気」でいてもらうために、人間側が「神を祈る」ということを通じて、その復活・賦活をしてやらなければならないということである。

 日本の「神」は人間だったために、その生命というか、先祖としての力を維持していくためには、常に子孫や人間の側からの加護や供え物や祈りが必要なのである。

 それが忘れ去られてしまうと、神々としての祖霊はその威力を失い、流浪し、敗残の兵のようによりどころを失ってしまう。

 神という名前があっても、実際は、ただの霊、精霊のような浮遊霊になってしまうといことかもしれない。

 日本各地には、かつて多くの神社があったが、それは祭られることで、その霊威を発揮した。

 西洋の神が、自分を祭る民を血統的な子孫ではなく多数の民族から、神自身が選ぶ(選民思想)があるのに対し、日本の神は先祖神であることが多いために、神が自分から子孫の民に自分を祭るように要請するのである。

 実際に、神が自分を祭るように要請している例がある。

 第10代の崇神天皇のときには、こうした神の祟りで、飢饉や疫病がはやり、それで神に祈ったところ、自分の子孫に自分を祭らせることを要請した。

 それで、民間にいた子孫(オオタタネコ)を見出し、神(大物主の神)を祭らせたところ、飢饉や疫病が収まったという。

 基本的に、神(先祖神)をその子孫が祭るということが、日本における信仰の基本となるのであるが、それが拡大すれば、日本民族が先祖神であるアマテラス大神を中心とした神々を祭ることにつながっていく。

 そして、その先祖神を中心とした信仰は、家族が結婚や同化を通じて親族関係が広がっていくので、基本的に外来の宗教を家族や仲間として迎え入れられるかぎり、対立を避けて受容し、共生していく道をたどる。

 外来の宗教である仏教がなぜ受け入れられ、神仏習合として共生共存関係を維持していったのか、というのは、やはりこの日本独特の神観、先祖神を中心とした神体系があるといっていいだろう。

 また、なぜお墓参りをして先祖を慰めるのか、あるいは、神棚に燈明を捧げ、故人の写真を掲げてお供えをしたりするのか、といえば、こうした「神」に加護をしてもらうということから来るのである。

 その「神(先祖神)」が、力を発揮するためには、その存在を認め、力づけ、励ます生きた人間の側の働きかけが絶対に必要なのだ。

 だからこそ、加護とご利益を願う祈りには、自分のこと、自分の事情だけを優先して「してもらう」という内容ではなく、神が元気になるように「してあげる」ことが必要なのである。

 そのために、その加護をしてくれる「神」の威力が増すように、折口信夫は、「神を祈る」という表現をしたのだろう。

 こうした考え方に立っていると、先祖崇拝は意外と重要な信仰であるということが理解できるといっていい。

 8月にはお盆があって、帰省シーズンとなるが、お墓の前で、先祖のことをしのびながら、感謝の気持ちを伝えたい。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)


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