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数学と文学と善悪の問題について


 

 芸術と数学というものは、一方が感情の分野、そして、もう一方が数式という合理的な科学的な分野ということを考えると、水と油のような関係というイメージをもちやすい。

 両者の接点はふつうならば、ありそうもない感じだが、文学者の中では、フランスの象徴派詩人のポール・ヴァレリーが数学を研究し学んだ例もあるし、両者は必ずしも水と油ではなく、根底に通じるものがあるのではないか、という気がする。

 そう思ったのも、数学にも、詩的な発想や文学的な思考が重要だという数学者の発言を読んだからである。

 数学者の岡潔と文芸評論家の小林秀雄が対談している『人間の建設』(新潮文庫)には、数学の問題だけではなく、文学や芸術についての問題についても発言されている。

 芸術を愛する数学者というのも、少し印象が狂ってしまうが、岡潔の発言は、かなり文学芸術に造詣の深い素養をうかがわせるものとなっている。

 だが、その鑑賞は独特な視点があり、たとえば、画家のピカソを評価しているが、それは芸術性というよりも、ピカソの描いたものが「無明」、すなわち人間の根底にある「悪」がそこに表れているからだという。

 「ああいう人がいてくれたら、無明のあることがよくわかって、倫理的効果があるから有意義だとしか思っておりませんん。ピカソ自身は、無明を美だと思い違いしてかいているのだろうと思います。人間の欠点が目につくということで、長所がわかるというものではありませんね」

 ピカソの芸術については、さまざまな見方があるが、こうした倫理的な側面からピカソの絵を見ようとした視点はあまりないといっていい。

 絵画運動は、神が支配する世界を描く古典的なものからルネサンスの人間中心主義へと変わり、描く対象を自己の思惟や芸術観で捻じ曲げ、自然の調和から離れ、自己自身の反映をそこに見いだす芸術思想が近代思想の基層になっている。

 印象主義運動も、神から見た調和世界ではなく、人間が見た自然世界、人間自身の中にある善悪の問題、その分裂と相克の様相をそのまま表現するように変化してきた。

 ピカソは、そうした人間主義の芸術の極北、自身がある意味で神のような立場になって、絵画に自己の天地創造をしたのである。

 だからこそ、ピカソの絵画には、奇妙な姿が描かれていようとも、そこに現代人の置かれた状況、心の分裂した世界を感得することができるので、自身の半身をそこに感じて魅力を感じるのである。

 ピカソの魅力は、神を失ったさまよう現代人の心や精神の彷徨を象徴するがゆえに、現代人の共感を呼ぶのである。

 芸術というものの変質がそこにはある。それは、現代芸術のルーツとも言うべき、古代ギリシアの彫刻などの肉体美、当時の人々が理想とした姿を彫刻で表現したのだが、それはやがて、神の美の時代から人間中心の理想像へと変質していくことで、芸術としての表現が変わっていった。

 理想的なものを追い求める果てにあるのは、人間を超えた存在、それは神といってもいいし、また理想的なイデアといってもいいだろう。

 その理想的な存在だった神の創造世界が相対化され、人間の世界が幅を利かすようになると、芸術のテーマはありうるべき理想的な世界ではなく、現実世界、そのリアルな様相を追求していく。

 外面世界ではなく、自然を破壊し、みずからの満足を求める人間中心主義、エゴイズムの内面世界を見つめるようになっていった。

 芸術が、個人主義の思想に侵食され、そのアンバランスな内面世界を映し、調和のとれた均整美から破綻と分裂、善悪の相克の中で、苦悩する人間の姿を描くようになったのは当然の流れであった。

 そうした芸術の歴史の変遷の狭間で、改めて神と人間、善悪の問題をそれぞれの信仰と立場から挑んだのがトルストイとドストエフスキーだった。

 トルストイは、人間中心主義の博愛主義から理想を求め、自己の財産を捨てて生きようとしして田舎の小さな駅で客死した。

 ヒューマニズムを貫けば、どうしても貴族であり富裕な階層の知識人の自身を否定せざるを得なかった。

 それに対して、ドストエフスキーはキリスト教の信仰を持ちながらも、自己否定ではなく、社会運動、革命運動に身を投じ、当時のロシア帝政を転覆しようとした。

 その結果、ドストエフスキーは死刑判決を受け、その後、恩赦でシベリア流刑を甘んじて受けざるをえなかった。

 そこで見た囚人たちの驚くべき姿にこれまでの人間観を改め、善悪に翻弄される人間の本質を追求するようになった。

 『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』は、そんな人間の持つ矛盾、そして究極的には神を求める希望を描いたものだった。

 数学者の岡潔は、こうした善悪の狭間で苦悩した人物たちを描いたロシア文学のドストエフスキーを好み、それに対して、トルストイは平板な印象があるという話をしている。

 ドストエフスキーとトルストイは並び称される大文豪だが、小林秀雄は同じ人間を描くのに、トルストイは人間の善意を見て、ドストエフスキーは悪の部分を見ているというようなことを述べている。

 どちらが優れているかということではなく、両者とも同じ本質を見つめていたということなのだろうと思う。(この項続く)

 (フリーライター・福嶋由紀夫)


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