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レフ・トルストイはなぜ家出したか?

 

19世紀から20世紀にかけてのロシアにトルストイ姓の文学者が三人いることは、あまり知られていない。年代順に上げれば

(一)アレクセイ・コンスンタンチノヴィチ・トルストイ(1817~1875)。

(ニ)レフ・ニコラウェヴィチ・トルストイ(1828~1910)。

(三)アレクセイ・ニコラウェヴィチ・トルストイ(1883~1945)の三人である。

(一)のトルストイは詩人、劇作家、小説家で日本語訳では「白銀公爵」(岩波文庫)がある。(三)のトルストイは旧ソ連邦を代表する作家の一人である。ロシア十月革命までの知識人らの波乱に満ちた人生を描いた長篇「苦悩の中を行く」は、新潮社刊行の世界文学全集(第二期の43巻44巻で読むことができる。この二篇の作品は一読に価する名作である。(二)のレフ・トルストイは言うまでもなく世界でも文豪の最高峰の一人に数えられている。本稿に目を通すことになったのを契機にロシアに三人のトルストイがいることを知るのも無意ではなかろうかと考える。

本論に移ろう。レフ・トルストイは1828年8月28日に、帝政ロシア屈指の名門貴族トルストイ伯爵家の四男として、トゥラ県の広大な領地ヤースナヤ・ポリャーナ(明るい田園)で生れた。二歳で母を、九歳で父を亡くしたために伯爵夫人である叔母に養育された。十二歳の時に「やさしい叔母さん」という詩を書いて文学的才能の片鱗を示した。1844年にカザン大学東洋学部に入学して英・仏・独・伊の言語を忠得しギリシャ語やラテン語も身につけた。学業には熱中せずルソーとゲーテに心酔しつつロシア文学を耽読し、二年ほどで大学を中退して相続したヤースナヤ・ポリャーナに帰った。

領地内では農民(農奴)の生活改善に腐心した。1848年と49年にかけてモスクワとペテルブルグに住み社交界で乱脈な日々を送った。後年の禁欲主義はこうした青春期の放蕩が遠因だと言われている。その後軍籍に入って戦争にも出陣し生活を立て直して処女作「幼年時代」に続いて「少年時代」「青年時代」を発表し作家としての地位を確保した。

1857年に仏・独・伊とスイスに旅行した。その体験にもとづいて、資本主義制度の貧富の差、貧しい人びとの悲惨な生活を告発し退廃したブルジョア文明を批判して小説「ルツェルン」を書いた。帰国後は領地内に二十余りの初等学校を開設して農奴たちの教育に力を注ぎ、農奴に無償で土地を与えて解放することを唱えた。このために当局から危険思想の持主だとして要注意人物に定められた。1862年34歳の時に宮廷医師ベルスの次女ソフィア・アンドレーエヴナと運命的な縁を結んだ。ソフィアはまだ18歳であった。

結婚生活に入った以後の15年間、ソフィアは夫に忠実で心から愛し13人の子供を儲けて幸福に浸った。この平穏な家庭生活を送る中でトルストイは長篇小説「戦争と平和」を書き続け同じく長篇小説「アンナ・カレーニナ」の構想を練った。そして引き続き領地の農奴に有利な施策をとり自己の博愛主義の実現めざして様々な慈善事業にたずさわった。

しかし1870年代から80年代にかけて博愛主義と厳しい現実との矛盾に悩み深刻な思想的危機に逢着した。これを打開する方法として、トルストイは農奴制を打破する方策や人類の至福を探求し、貴族階級の強大な特権を否定し、私有財産制度の廃絶と全人類の平和・平等の実現を唱えた。そして農奴の利益を擁護する立場から皇帝ツアーリによる専制政治と、教会の利益に固執し旧習を墨守する宗教的悪弊の廃絶を強く訴えた。そのために宗教と道徳と教育などテーマとする論文やパンフレットを多く書いた。「教義神学批判」「人はなぜ生きるのか」「要約福音書」「教会と国家」「わが宗教」などがその代表的作品である。トルストイ主義と名付けられるこのような思想は、当時ロシアで根を下ろし始めた科学的社会主義(マルクス主義)と対立するものでありこの陣営から批判された。

しかし、彼らも、トルストイの文学的偉業は高く評価した。トルストイ主義を家庭内で実行しようと努力したために、優雅で奢侈に流れる生活に満足する妻ソフィアとの間に深刻な軋轢が生じるようになった。妻との思想的不一致、人生観の相違がもとでの家庭内の争いはトルストイを苦しめた。とくに、晩年のトルストイは領地を農奴に分け与えることを考え著作権を放棄して自分は農奴たちと農作業に従事するという事態までに到った。夫の精神的葛藤を理解できず莫大な資産を失うことを恐れたソフィアは、世界的に著名な求道者、作家である偉大なトルストイの地位と名声、そして資産を自分の獲得物にして安穏に暮らすことを追い求めたのである。トルストイとしても自分を心から愛し理解してくれる妻と一心同体で家庭の幸せを享受したいと望んでいた。事実、トルストイは自分の信仰と理想に基づいて満ち足りた家庭生活を希求していた。このことは、二大長篇「戦争と平和」及び「アンナ・カレーニナ」において明示されている。

1869年に全六章で完結した「戦争と平和」の登場人物の総数はじつに559人にのぼりその中には歴史上の実在人物ナポレオン(スノッブ=俗物として描かれている)やクトゥゾフ(ロシア軍の総司令官で名将として描かれている)の二人が含まれる。この長篇は戦争の勝利を決めるのは武器の優劣ではなく将兵の愛国心と志気である真理を闡明しつつロシア人民の謙虚と勇気と楽天主義を浮彫にし人民こそが歴史創造の原動力であることを証徴している。その一方で、すべては、人間の理性では理解できない神の意志によって決定されるという摂理を説いている。ボルコンスキイ、ベズーホフ、ロストフという三つの名門貴族出のアンドレイ、ピエール、ニコライ(以上男性)、そしてナターシャ、マリア、ソーニャ(以上女性)たち主要登場人物らがどのように1812年祖国戦争(ナポレオンのロシア侵略戦争)にかかわりどのように生きたかという彼らの人生の歩みをヴィヴィトに展開されている。

そしてトルストイは波乱万丈の長篇の結末を、道徳的で社会に役立つことを願うピエールと彼を愛し四人の子供を生んだナターシャの幸福な家庭生活、さらには、領地の経営に励むニコライとマリアの睦まじくも至福の結婚生活を活字している。とくに「戦争と平和」の「エピローグ」の第一部の(九)はピエールとナターシャの家庭生活に多くのページが与えられていて、ここにこの大作の主要なテーマの一つが秘められている。1877年に出版された「アンナ・カレーニナ」は、高級官僚の夫カレーニンに愛想つかしたアンナが凡俗な家庭生活を捨てるのが発端である。彼女はヴロンスキイという陸軍将校と道ならぬ恋に陥り最後には鉄道自殺で果てる。これが本書の一つのプロットである。これに対比させて、実直な地主レーヴィンと結婚したキティの生活がもう一つのプロットである。作品では、理想に燃えて領地の運営に革新をもたらそうと努力するレーヴィンと夫を支え子宝にも恵まれたキティとの理想的な家族団欒の模様が描出されている。しかし現実のトルストイはピエールとナターシャ、レーヴィンとキティの家庭のような理想的な夫婦生活、幸福な家庭を営むことができなかった。

1910年10月28日、トルストイは、家族でただ一人自分を理解する末娘のサーシャに助けられ弟子一人を伴って家を捨て放浪の旅に出た。そして、11月20日に急性肺炎を患いリャザン―ウラル鉄道の寒村の小さな駅で、すべてを許し自己の信じる神の王国に旅立った。享年82歳であった。

トルストイの家出の原因は複雑であった。例えば自己の信条とツアーリ専制下の現実との乖離、自己の名声を厭いそれから免れてトルストイ主義を全うしたいという念願などを挙げることができる。しかし家出の直接的な原因は、妻ソフィアとの間に生じた倦怠と争いであり家庭生活の不幸であった。

文鮮明・韓鶴子総裁を推戴する世界平和統一家庭連合は、真の家庭とは父母と夫婦と子供が一体となり、隣人と民族と国家を超えて天国のような環境を創る運動を繰り広げている。私は家庭連合が、トルストイの願望した夫婦愛、子供への慈愛、家庭円満、全人類が一つの家庭であるという理想と一脈相通じているものと考える。これは決して牽強付会の説ではない。これは、最近になって平和統一聯合にアプローチするようになった私の真摯な感懐である。

 

(ロシア文学者・文芸評論家 辛英尚)

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