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ユーラシアの東と西 義兄弟のようなトルコと日韓両国

 

元特派員(バーレーン、トルコ)。UPI通信社・元東京支局長。
現在、一般社団法人「平和政策研究所」主任研究員。 山崎喜博

 私は今、トルコという国の、イスタンブールに住んでいる。日本や韓国がユーラシア大陸の東の端とすれば、その反対側、西の端に当たるのがトルコだ。地理的に見れば、縁の薄い国同士になりそうだ。実際、成田空港から、トルコ最大の街イスタンブールまで、飛行機で十一時間を要する。

 ところが運命のいたずらか、それとも天の配剤か。トルコ国民の中には、日韓両国について、利害得失を超えた、いわば義兄弟のような間柄に感じている人が少なくない。私自身、トルコ在住が長くなるほど、この国と日韓両国との絆の不思議さに注目している。本紙の好意に甘えて、そのあたりを随想風にまとめてみたいと思う。

 韓国にとってトルコは、1950年に勃発した韓国動乱の際に、国連軍として参加した16か国の一つだ。約5千人のトルコ人兵員が派遣され、勇猛で名を馳せたが、その分、戦死者も千人近くに。韓国の水原にはトルコ人戦死者を追悼する記念碑が建立されている。ある時、トルコ軍人を水原の山中の車道脇に立つ碑に案内したが、いたく感激され、敬礼を捧げ、トルコ国歌を唄っておられた。

 またトルコの首都アンカラにも、動乱での戦死者全員の氏名を刻んだ碑が置かれた慰霊公園がある。同公園での慰霊行事の際、動乱で実際に闘ったという老人に会ったが、懐かしそうに「アリラン」を唄い出したものだ。

 中年以上のトルコ人にこの話題を向けると、かつてトルコ人の血で守った韓国が、立派な国になったことを誇らしげに語る人が多い。トルコ人の男性の間では「血の兄弟」という誓いを交わす人がいるが、韓国に対する感情にはそんな雰囲気さえ漂う。

 日本についてトルコ人が一番よく知っている歴史はたぶん、オスマン帝国の軍艦「エルトゥールル号」遭難の話だ。明治23年、訪日行事を終えて帰国の途に就いた同艦が、和歌山県串本沖で台風のため沈没し、乗員587名が死亡した。それでも近隣の村人らが必死の救難にあたり、69名を救出し、日本政府は後日、彼らをトルコまで送り届けた。

 このエピソードがトルコ国民に記憶され、学校教科書にも取り上げられた。串本町と、トルコ南部のメルシン市には、それぞれ海を臨む場所に立派な追悼碑が建立され、串本町の方には「トルコ記念館」もオープンしている。

 それからほぼ一世紀、イラン・イラク戦争のさなかの1985年、イラクは敵国イランの上空を飛ぶ航空機を無差別攻撃する、と威嚇した。その攻撃開始期日が迫る中、イランの首都テヘランにあるメヘラバード空港には在留邦人二百人余りが救援機を待ち続けていた。彼らを脱出させてくれたのはトルコが飛ばしてくれたトルコ航空の飛行機だった。

 この危険が伴う決断を下し、それを実行したトルコの関係者たちの心には、前述の「エルトゥールル号」遭難で日本から受けた昔の恩義に報いたい、との想いが強くあったという。ちなみに、この歴史ドラマは日本・トルコ合作映画「海難1890」(2015)に描かれているので、ご覧になっていない方には鑑賞をお勧めしたい。

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