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サルの『反省』ポーズと文学者の『反省』


 

 「反省!」

 その言葉を受けて、かつてサルが猿回しの膝の上に手をつくポーズが一世を風靡したテレビ番組での光景があった。

 もちろん、サルが本当に人間のように、本当に「反省」したわけではない。

 「反省!」という言葉に反応するように、それらしいポーズを訓練したというだけのことである。

 それが話題になったのは、「反省」という言葉に、ちょっと上から目線で、膝に手をついた姿勢が面白かったので、ウケただけに過ぎないといえばいえるだろう。

 ペットの犬に「お手!」と言って、エサを与えながら、前足を手に乗せるようにしたのと同じである。

 だが、サルの「反省」ポーズは、ただそれだけで、話題になったのではないと私は考えている。

 視聴者としては、本当に反省している人間は、ああしたポーズをするはずがないということ、要するに、「反省」というのは形だけで、本当は反省なぞしていないということをサルのポーズから感じ、そこに風刺的な隠喩を読みとって、滑稽な笑いを感じたのではないか。

 要するに、現実の世界でも、このサルのように、「反省」の姿勢を見せながら、実際は全然そうは思っていない例が多いということを視聴者は感じ取っていたのではないか。

 といっても、これは私だけの印象かもしれないが、政治家や企業の不祥事が話題になり、幹部が頭を下げて「反省」するという報道を見聞きするたびに、本当に「反省」しているのか、という疑義やポーズに過ぎないのではないか、という思いを抱くからである。

 もちろん、「反省」というけじめは必要であり、それを何らかの形で示さなければならない、ということはある。

 不祥事を起こして、何のリアクションもしなければ、それは居直っているとしか思えないこともあるだろう。

 ただ、それが、最近、一種の儀式、パフォーマンスのように見えてしまうのは、「反省」というポーズがステレオタイプになってきて、いささか食傷気味になってしまった現代人の麻痺した感覚があるのかもしれない。

 それで、本当に「反省」するとは、どういうことかを考えるようになったせいかもしれない。

 現代は、あらゆるものが、可視化しなければ満足しなくなっているので、パフォーマンス的なコミュニケーションとしての「反省」は無くならないだろう。

 それが言葉によるものであるか、土下座のようなポーズであるかは、別としても、人々は見える形での「反省」を求めているからである。

 ならば、本当に「反省」したポーズとは、どんなものか、と問われれば答えに窮するのであるが、ただ、お辞儀をするという一過性のポーズ「反省」儀式で終わらせるだけではなく、その後のケア、社会的責任としての継続的な姿勢は必要であるとは感じている。

 もちろん、それは企業や国家のような公的な存在と個人における「反省」とは、質や性格が違うので同じような基準で考えることはできない。

 その意味で、この問題は、具体的な事例によって、個々に考察しなければならないのだが、それをするには、私の手に余るので、ここでは論じないけれど、参考になるというか、常々感じていた「反省」についての問題について考えさせられる文学者の発言があるので紹介したい。

 それは、第二次世界大戦後に、文学者の戦争責任について言及した座談会での文芸評論家の小林秀雄の発言である。

 その内容にふれる前に、当時の概況を記しておけば、日本の敗戦によって、それまで弾圧されて沈黙していた文学者の一部が、作家や詩人などの文学者の大戦中の発表した戦意高揚的な作品、あるいは国の文学統制に協力して活動した行動や発言を取り上げて批判した時期がある。

 「戦争責任」は、政治家や軍人だけのものではなく、ペンによって生み出された言論、詩や小説などで多くの国民の感情を戦争協力へと誘導したということで、その責任はどうとるつもりなのか、「反省」を促し、そして、何らかの罪の償いを追及した。

 この追及は、特にプロレタリア文学者などイデオロギー的なものが中心だったが、中には戦時中に戦争昂揚的な作品を書いた(書かされた)自己の責任を逃れるために、積極的に「反省」の姿勢を示し、その追及の先鋒を務めることで、免罪符のつもりで追及する側に回った文学者もいた。

 いずれにしても、戦後のこの風潮の中で、文学者は「反省」してペンを折って沈黙するか、ひたすら悔い改めの「反省文」を書き告白するか、あるいは嵐が去るのを待って忍耐するか、そのような流れの中にいたといっていいだろう。

 反論することは、軍国主義者、戦犯であるというレッテルを張られ文壇から葬り去られることになるからである。

 その文学者の戦争責任論についての座談会は、昭和21年に、雑誌『近代文学』で行われたもので、文芸評論家の本多秋五が小林秀雄の戦時中の姿勢を弾劾したものに対しての小林の答弁である。

 「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若(も)しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度(めでた)い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」

 この小林の言葉だけを取り上げれば、「反省」していないということになるだろう。「反省」しないと発言しているのだから。

 だが、これまで述べてきたように、「反省」とは言葉やお辞儀などのパフォーマンスで示すことだけが、本当に「反省」していることになるのか、ただのポーズに終わっていて、本質は変わっていないのではないか、という疑いが起こるのである。

 その意味で、この小林の発言をよくよく考えれば、表面的な「反省」ではなく、深層の心理において、深く沈思し「反省」をしているように思えるのである(あまりの衝撃に言葉を失い、そして簡単に「反省」の言葉を言えない状況だろうか)。

 当時、すぐに「反省」の言葉を繰り返した文学者が数多くいたので、この小林の発言が異彩を放つのは、心からの言葉はそう簡単には言えないというこを示しているからではないか、と思うからである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)


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