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『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』 (12)日光


 

(12)日光

家光将軍の要請受け、日光東照宮へ

 元和2年(1616)江戸幕府初代将軍・徳川家康が死去すると、遺言により一端は久能山に埋葬され、翌年の元和3年(1617)に日光に改葬された。さらに1618年には、朝廷から東照大権現の称号と正一位を与えられて東照社と称し、正保2年(1645)宮号を賜り、日光東照宮と改称している。
 3代将軍・家光は家康に対し特別な畏敬の念があり、日光東照宮への参拝は19回に及び、寛永13年(1636)には社殿の大造営を行い、現在に見られるような社殿群を建立した。なお、2代将軍・秀忠が建立した拝殿・唐門・多宝塔は、徳川家発祥地の地とされる世良田東照宮 (群馬県太田市)へ移築された分霊を遷座している。
 日光東照宮の総奉行は秋元泰朝、棟梁は甲良宗広一派が手掛け、将軍家の威光をかけた壮大華麗な社殿建築を創出した。また、日光東照宮は政治的にも利用され、例祭には朝廷から奉幣使が派遣されたり朝鮮通信使が参拝に訪れたりして、幕府、将軍家の権威付けが行われた。
 通信使は第4次から計3回(1636年、1643年、1655年)、日光に行った。国書改ざん事件の裁きが降された後、朝鮮外交を担う対馬藩主・宗義成の外交手腕を試すような形で、日光参拝が提案された。ときの将軍家光の発案である。その狙いは、荘厳華麗な東照社への正式参拝によって、日光山の聖地化を一層進め、武家諸法度や参勤交代制度など大名統制を強固にし、政治的な効果を最大限に演出しようという点にあった。

 初の日光行きは、朝鮮国王の許可がない外国の寺社参拝ということで遊覧と位置づけられた。2回目、3回目は正式の参拝となった。
 1643(寛永20)年の通信使は、日光山東照社参拝と銅鐘・三具足献納を主とした。どのような形で家康廟を参拝するのか。心配になった宗義成の質問に、正使は「国王、はすでに祭祀を行うことを許している。礼拝は自ずから条文があるので、不届きはない。心配しないで」と答えた。しかし、正使の東照社での礼は、四拝の最高拝礼ではなかった。
 江戸城で正使は四拝を強いられたが、それは将軍家光に対してではなく、朝鮮国王の国書に行った。依然、細かいところで日朝の思惑に隔たりがあった。通信使が国書をいかに大切に扱ったか。江戸へ向かう道中、常に中央を行く正使の目の前に龍亭子(4人で担ぐ国書を納めて持ち運ぶ専用の箱)を歩かせ、日光道中でも国王親筆の持ち運びを日光山門跡にしか託さなかった。
 日光東照宮は当初から天海僧上の主張もあって、山王一実神道による神仏混合を採用し、薬師如来を本地仏として祀り、他の日光山内の社寺と渾然一体となっていた。しかし、明治時代初頭に発令された神仏分離令により、日光東照宮、二荒山神社、輪王寺の「二社一寺」に集約され、日光東照宮は改めて正式の神社となった。
 日光東照宮は現在でも多く社殿や寺宝を所持し、特に本殿、石の間、拝殿、陽明門、回廊などは国宝に指定され、「三猿」「眠り猫」「想像の象」などの彫刻は日光三彫刻として名を馳せている。
 境内は輪王寺本坊、大猷院(たいゆういん)廟、二荒山神社などと共に「日光山内」として国指定史跡に指定され、「日光の社寺」として1999年、ユネスコ世界遺産に登録されている。

 

陽明門そばに友好の朝鮮鐘が

 世界文化遺産は、日本各地にそれは点在するが、関東では、家康を祀る日光東照宮を含む日光が入っている。自然と歴史が一体となった、日本の誇る世界遺産といえる。 
 日光東照宮は、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが京都の桂離宮と比較しながら、装飾過剰で日本的美とはかけ離れていると、評価を下した。確かにそうである。中国的である。日本の簡素の美、枯淡の美、松尾芭蕉の俳諧理念にもある「わび」「さび」といった世界とは大きく異なっている。当時の中国崇拝が、結晶したような世界である。
 朝鮮王朝が釜山で鋳造した鐘が、朝鮮通信使の日光詣での折、進物品として“奉納”された。朝鮮鐘のほかに、青銅製の三具足(燭台、香炉、花瓶)も加わっている。漢城(現、ソウル)から江戸まで約2000キロ。さらに日光まで足を伸ばした使節の心労はさぞかし、と思う。
 朝鮮通信使の日光詣では、歴史作家・荒山徹氏がそれを題材に『魔岩伝説』という小説を書いている。興味深い作品である。
 朝鮮鐘は、天辺の竜頭に小さい穴があることから、虫喰い鐘といわれる。通信使が進物したこの鐘は鋳造するとき、銅が不足したため対馬からわざわざ仕入れている。また、それに江戸まで運ぶため、それ専用の船まで手当てした。
 1643年の朝鮮通信使は、家光の世継ぎ4代将軍家綱誕生を祝って来日した。東照社での祭祀も目的に入っていた。鐘と三具足も6月16日に江戸に着き、翌17日の家康の月命日に間に合ったため、家光を喜ばせた。

 

東照宮は、江戸時代の美の泉

 朝鮮通信使が運んだ友好の鐘は、1643年に贈られ、1655年には境内に掛けられた。その間、家光を祀る大猷院も完成する。江戸参府のオランダ商館長が真鍮細工の31の油皿を持つスタンド型燈架も献上されたが、こちらは見栄えのする贈答品だったようだ。 
 朝鮮鐘は、陽明門の右手に掛かっていた。背後の鐘楼に比べ、見劣りのする鐘突き堂でしかない。鐘の文様を見ながら、ぐるりと一回りした。朝鮮鐘特有の、天女が舞う優美な姿は…とみていると、小ぶりにしか描かれていない。全体が和鐘のような文様で、銘文に「朝鮮」と刻まれているのを確認して、やっと得心した。
 家康の墓所は、300段を超えるほどの石段を登った高台にある。石組で囲まれ、幾段にも積み上げた基壇も大きかった。青銅の三具足も立派で、これが朝鮮が贈ったものである。
 “平成の大修理”が終わった三仏堂。建物や遺物を見ているうちに、美術館に入ったかのような錯覚を覚えた。木彫りの模様が素晴らしい。家光が、祖父家康の威厳を天下に示すため、財力を注いだことがうかがえる。名のある絵師、彫り師(彫刻家)、仏師など総動員されたのではないか。その総意として、江戸時代の美の泉であるという印象を持つ。
 家光の命を受けて、威容を整えた僧侶が、天海だった。家康を神格化し、聖地日光山による幕府の精神的支柱を確たるものにした功労者である。家光の墓所の近くに慈眼堂があるが、そこが天海の墓所である。大僧正墓所と記されている。

 

【ユネスコ世界の記憶】

・朝鮮国王孝宗親筆額字 (使行年 : 1655年) / 制作者 : 孝宗 / 制作年代 : 1655年 / 数量 : 1点 / 所蔵 : 日光山輪王寺 = 栃木県指定文化財
・東照社縁起 (仮名本) 5巻のうち第4巻
(1636年) / 狩野探幽ほか / 1640年 / 1点 / 日光東照宮 = 重要文化財
・東照社縁起 (真名本) 3巻のうち中巻 (1636年) / 親王・公家 / 1640年 / 1点 /
日光東照宮 = 重要文化財

 

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【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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