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『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』 (6) 忠州


 忠州は、その地勢的位置から、朝鮮半島のへそといわれる。三国時代、高句麗と百済、新羅がこの地でぶつかりあい、覇を競った。高句麗が制覇すると、住民は高句麗人に、勝利する国によって住民は百済人にも新羅人にもなった。

 忠州博物館で、展示された中原高句麗碑と丹陽新羅赤城碑(模型)を見ると、ここが三国時代を通して重要な要衝であることが分かる。

 秀吉の朝鮮侵略で、忠州は最後の砦となった。朝廷が最も信頼する申石立(シンリプ、リプの字は石に立)将軍が陣を構えていたからだ。しかし、その期待も虚しく全滅してしまう。宣祖の嘆きは、いかばかりだったか。忠州の敗戦は、国王の都落ちを決定づけた。この戦闘の様子は、忠州世界美術館に陳列された絵画で確認できる。

 朝鮮通信使も忠州入りすると、申リプ将軍らに思いを馳せた。「申元師と金将軍の 陣地跡を 望みながら 律詩を一首作り 忠魂を慰める」と、金仁謙(キムインギョム、1764年の通信使・書記)が『日東壮遊歌(イルトンジャンユガ)』(東洋文庫、平凡社)に記すほどである。申リプ将軍が戦った一帯は、弾琴台(タングムデ)といわれる。その地名の由来は、6世紀半ば、新羅に帰化した加耶出身の于勒(ウルク)にある。忠義を誓った彼は、12弦の楽器で歌を作って披露した。それが、この場所である。

 忠清道には両班(ヤンバン)が多く住みついた。両班といえば、激しい党争を繰り返す欲の塊のように思えるが、両班によって性格も異なる。

 山河が穏やかで美しい、この地に惹かれた忠清道の両班は、礼儀正しく穏やか、中庸を重んじる性格だったという。それほど、忠清道は風雅に富んでいたといえる。その風が両班にも反映している。安東の仮面劇は有名であるが、それは両班を中心にする社会への恨みを晴らす、庶民にとってはうっぷん晴らしであった。その仮面劇が、忠清道には、ほとんど存在しないといわれる。この土地の両班の気質を知る、一つの手がかりとしては大きい。

 弾琴台には申リプと兵士をかたどったモニュメントが立ち、川添いには申リプ将軍の殉節碑も立つ。博物館にある「忠州抗争室」には、弾琴台で秀吉軍の進撃を止めようと奮戦した申リプ将軍の肖像画が展示されている。

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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