記事一覧

『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』 (5) 漢城(現ソウル)

 1592年、豊臣秀吉の朝鮮侵略で、都・漢城にある景福宮(キョンボックン)をはじめ朝鮮王朝の王宮の大部分が焼失した。加藤清正や小西行長が入城したときには、景福宮は焼失していたと伝えられる。賤民たちが身分制の足かせになっていた戸籍簿を保管している官庁に火をつけたといわれる。さらには、王宮で陣を張った宇喜田秀家が燃やしたともいわれるが、その理由は奇異なものだった。ここに泊まった兵士が、夜な夜な血を吐いて倒れ、死ぬものが相次いだ。これに怖れをなして燃やしたともいわれるが、定かではない。
 国王・宣祖は先祖の位牌を持って朝鮮半島北部の義州に避難した。1593年、漢城に戻ったとき、秀吉軍の蛮行で灰燼と化した都城を、新たに再建しなくてはならなくなった。このとき焼け残った地域は南山一帯と徳寿宮(トックスグン)の一帯だけで、宣祖は民家を借りて仮の王宮にした。これを貞陵洞行宮(チャンヌンドンヘングン)と呼んだ。その場所が現在の徳寿宮である。

 日本に派遣された朝鮮通信使の最初の舞台となったのは、昌徳宮の煕政堂(ヒジョンダン)である。ここで通信使高官は国王に励まされた後、整列を組んで崇礼門(南大門)を抜けて王宮の別れを告げた。当初、侵略による悪夢から覚めやらぬ日本との早急な交隣回復には、朝鮮国内でも釈然としない心情的抵抗があった。
 1607年に呂祐吉(リョユギル)を正使とするの通信使(467名)がソウルを出発したとき、多くの文人たちがはなむけの送別詩を送った。そのなかに、尹安性(ユン・アンソング)という文人は、次のような詩を送った。

使名回答 向何之  今日交隣 我未知
試到漢江 江上望  二陵松柏 不生枝

(解釈) 回答という名の使節は いずこに向かうのか 今日の交隣を 我れいまだ知らず 試みに漢江に到り 江の上流を望めば 二陵の松柏は 枝も生えざるものを

 ここで二陵というのは国王・成宗の宣陵と、中宗の靖陵のことである。1592年、この二つの陵が秀吉軍によってあばかれた。

 崇礼門を出て、南山を越えて漢江に出た通信使は、渡し場から川を渡り、初日の宿泊先である良才(ヤンジェ)駅へと向かった。
 王宮から良才駅に至る経過を、通信使の製述官や書記は、次のように描いている。

▼1607年、慶七松の「海橘録」より

「正月12日 晴。明けがたに王宮にはいり、王に旅立ちの別れの挨拶をする。酒と馬の鞍および定南針(羅針盤)1組を賜る。先に掌務官をして、書契を持って川の岸に行って待つようにさせた。巳の刻(午前10時)に出発して、城門外で餞別の宴にあずかる。夜に漢江のほとりのいなかの家に投宿したが、曹輔徳と叔父および任進初があとを追って来てともに泊まり、有後も随行した」

◎北村韓屋マウル

 北村韓屋(プッチョンハノッ)マウルに行く。仁寺洞(インサドン)の北側、大統領府・青瓦台にも近く、王の景福宮(キョンボックン)と昌徳宮(チャンドックン)の間に位置する。韓国のバラエティー番組『1泊2日』で、人気が出たところである。嘉会洞(カフェドン)、桂洞(ケドン)、苑西洞(ウォンソドン))などで構成された一帯。朝鮮王朝時代、王族、両班(ヤンバン)といった権門勢家が居住していた。一方、南山のふもとには下級官吏や貧しい両班の住居が集中していた。
 開発が規制されたため、昔の姿がそのまま残されている。北岳山や鷹峰を背景とするこの地域は北高南低で、昔は山水が美しいうえに、南の方には緑深い南山を眺めることができた。日当たりや排水も最良の高級住宅地だった。
 韓屋がぎっしり並ぶ、その間の路地を抜けながら、北村八景を楽しめる。疲れれば、大通りにあるカフェで休めばいい。

 かつて日本民芸運動の指導者で、哲学者である柳宗悦(やなぎ・むねよし)は、朝鮮芸術の特徴を「曲線の美」といった。民家の屋根が曲線を描きながらつらなる景観美を、そう指摘した。ちなみに中国は「形の美」、日本は「色の美」である、と柳はいった。

朝鮮通信使関連史跡

・昌徳宮の煕政堂(ヒジョンダン) = 国王の命令を受けて、旅立つ前に別れの挨拶をする場所【※秀吉の朝鮮侵略で焼失したが、復旧。王の寝所として使った大造殿とともに煕政堂は内殿。内殿は王や王妃の生活空間であった】
崇礼門(スンネムン) = 出発した通信使一行が宮殿を出て行く最後の門
・漢江(ハンガン)渡し場 = 通信使一行が家族と最後の別れをした場所

←前のページはこちら               次のページはこちら

【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

関連記事

コメントは利用できません。