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黄七福自叙伝「満州へ誘われたこと」/「金成柱の金日成のこと」

 

黄七福自叙伝10

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第1章 祖国解放までのこと

満州へ誘われたこと

日本レーヨンという会社に勤めていたころ、東京から早稲田大学の洪秀芳という学生がきた。

「満州へ行こう」

と誘われた。

「満州の日本人の牧場で山羊を飼っている。その牧場を、馬賊が攻めてくるから、行ったらすぐ警備のために鉄砲をくれる。その鉄砲をもって金日成将軍を探しに行こう」

というのである。

強い誘惑を感じたものの、十七、八歳の私には、その決断はできなかった。洪秀芳の説得に、何人かが行動を共にして満州へ行った。

洪秀芳は二十四、五歳だったと思うが、もうおっさんという風貌だった。

日本レーヨンでは、朝鮮人の集まりがあった。同じ朝鮮人という気持から「金日成将軍を探しに行こう」という密かな会話があった。

「会」というものは組織されていないが、そのような「会」ができたら、即座に、特高にマークされ、ひどい目に遭うことは必定だった。

そのとき、満州に行った同僚たちのその後の消息は何一つわからなかった。

「金日成が北鮮を襲う」という記事が出て、朝鮮人には大きな刺激を与えた。「やっぱりどこかで、祖国独立のためにやっているんだ」という気持を抱かせ、祖国独立の大きな希望になってたからだ。

金日成将軍は、朝鮮人にとっては神様のような存在だった。その首に百万円、あるいは二百万円の懸賞金がかかっていた。

これは噂だが、ソウル大学医学部の病院に一ヶ月入院していて、その人が金日成だということは誰も気づかなかった。

退院して行ったあと、ああっ、あれが金日成だったのかと、日本側がものすごくあわてふためいたという話が飛び交った。

そうした噂話も、大きな刺激になった。

「やっぱり、自分の国のために闘っているんだ………」と。

 

金成柱の金日成のこと

金日成の話は、太平洋戦争が起きる前だから、昭和でいえば十五、六年のころだったと思う。

そうした金日成の話を聞くと、独立への刺激が心のなかでさらに高揚した。

しかし、その金日成は、解放後、スターリンの傀儡としてソ連軍の後押しで北朝鮮に入り込んだ金成柱の金日成ではない。

祖国独立の英雄の名前を、よくもぬけぬけと盗用して、金日成になりすました金成柱の北朝鮮は、偽造の国そのものだし、一民族として激しい憤りを覚える。

金成柱は、金聖柱とも表記されたといい、当初、金一星と名乗り、さらに金一星と同じ発音の金日成と改名した。

そして、解放前の満州で活躍していた義兵闘争の伝説的英雄である金日成のイメージに重ね合わせる歴史の偽造を行ったのである。金日成は白髪の老人のイメージだったのだ。

また、金一星の名は、金佐鎮暗殺事件や第四次間島共産党事件の関係者として、独立運動家の間では知られていた名前であり、それにあやかった名前だとされている。

金佐鎮は、北路軍政の総司令官として大韓軍政署独立軍を指揮し、日本軍の山田連隊を撃破して、「青山里の戦い」を勝利に導いたことで知られている。

「青山里の戦い」は、洪範図指揮下の独立軍連合部隊(大韓独立軍、大韓国民軍、琿春韓民会、義民団、大韓新民党など)が一九二〇年十月二十一日から二十六日にかけて青山里白雲坪で戦ったことをいう。

解放後、金日成が朝鮮大衆の前に姿を現した時、義兵闘争の英雄である金日成将軍にしては余りに年齢が若すぎたため、偽の金日成将軍が現れたとの噂がたった。

『在日星 金天海』という本の中にも、「初代のキム・イルソン将軍が登場する。白頭山を拠点に鮮満国境で活発な武装闘争を展開した金一成(本名・金昌希)部隊の噂が朝鮮全体に広まり、ここにキム・イルソン伝説が始まるのである。

もちろん、戦後に北朝鮮に現れた金日成とは別人である。だから、彼が”抗日の英雄キム・イルソン”として平壌に現れたとき、昔を知る老人たちは、”あんな若僧がキム・イルソンであるはずがない”とそっぽを向いたのである」と紹介されている。

その後の北朝鮮では粛清の嵐が吹き、朝鮮労働党初代政治委員であった者は、金日成(金成柱)以外すべて処刑されたり、獄死したり、変死したりしている。それは次の通りである。

朴憲永(処刑)、許哥而(変死)、金科奉(獄死)、李承燁(処刑)、金三龍(処刑)、朴一禹 (追放)、金策(変死)、許憲(事故死)、崔昌益(獄死)

金日成(金成柱)はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬り、ソ連型社会主義体制を築き、一九六〇年代末までに金日成独裁体制を完成させたのである。

朴正煕大統領の治世下、朴鐘主が警護室長のとき、金日成の本が出た。

私は、その本を五千部引き受けて、自費で各所に贈呈した。

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