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2009年12月 アーカイブ

2009年12月01日

埼玉連合会結成5周年記念の集い

 11月21日、埼玉連合会はさいたま市岩槻の会場で、「結成5周年記念の集い」を開催した。趣旨に賛成している在日同胞や在日韓国人、活動を支援している日本人など約50人が参加した。五年間の経緯報告や講演会、会員による手作り韓国料理やお弁当、そして歌に踊りに祝賀のムードで盛りあがった。

記念写真

 今までの5年を感謝して集いは、「第一部 記念の集い」と「第二部 祝いとしゃべりの場」に分けて企画された。第一部では、最初に五年間の経緯が報告され、金榮翯(キムヨンハク)埼玉連合会会長の挨拶。金会長は、「臨津河(イムジンガン)へ行って、在日の皆さんと共に、北の空に思いが通じるようにと、風船を飛ばしたこともありました。」と語られ、世界日報の記事を抜粋し、「何とかしてみようと努力はしている。これからも皆様と韓半島統一に向きたい。」と述べた。

金榮翯(キムヨンハク)埼玉連合会会長
<埼玉連合会会長>

 その後、前 埼玉民団地方支部団長による祝辞。団長は文鮮明先生の自叙伝「平和を愛する世界人として」の韓国語版と日本語版両方を読み終えた土台で語られた。「自叙伝の中に『若いときは苦労しろ』とありますが、私の苦労話をしゃべりますからきいてください。」と、いろいろな体験を語られ、「きょう、来る途中も思ったが、人の力ではなく、なんか別の違うものが私を助けてくれたのではないか。その時はこんな苦労は二度とやりたくない…と思ったが、何十年経ってみて文先生の本を見て、ハーッと思います。」と述べた。

 また、趣旨に賛同している在日婦人が、「北には、会ったこともない叔父や叔母たちもいるので、早く統一され、その時は生きているかどうかわからないけど会いたい。早く、統一できたらいいなと祈っております。また、私にできることで協力できたらと参加させて頂いています。」と南北統一への期待を述べた。

 この後、在日アーティスト 尹漢信(ユンハンシン)さんによる弾き語りで祝賀を飾った。

 そして、鄭時東(チョンシドン)中央会長による記念メッセージ講演。鄭会長は「100年前、日本が韓国の言語と歴史、文化、民族の精神を認めていたら、全く違っていた。」と語り、「文総裁もあらゆる恨を感じながらも、心を、むしろ、恨みを愛に代えて実践してこられたことに、それ以外に、日本と韓国との問題を解決することはできないのではないか?」「我々と共に、在日同胞同志が愛し合いながら、日本人を巻き込んで、祖国統一と世界平和を愛する世界人としての歩みを共に歩んでいきたい。」と言葉を締めくった。

鄭時東(チョンシドン)中央会長
<鄭時東(チョンシドン)中央会長>

 第二部では、会員による手作り韓国料理とお弁当が振舞われ、可愛いオリニの朝鮮舞踊と、韓国民謡、カラオケの懇親会の場となった。

(記・北埼玉 柴崎)

歴史探訪ツアー「茨木市キリシタン遺物史料館と広隆寺」を訪ねて

 第8連合会は、11月20日大阪府茨木市千提寺にある「キリシタン遺物史料館」と京都市右京区太秦にある「広隆寺」を訪ねるツアーを開催した。参加者は在日コリアン・韓国人・日本人を含めて総勢30人。秋の季節を楽しみ、遠い歴史に思いはせながら、南北統一の決意を新たにした。

キリシタン遺物史料館公式WEB

 一行は、名古屋駅を午前9時に出発し、名神の茨木インターを降りてから北に向かって30分ほど細い山道をバスで走りながら定刻の12時に史料館前に到着し、野外で紅葉を見ながら昼食をとったあと、史料館を見学した。

 史料館は小さな一軒家屋であったが、この地でキリシタン遺物発見の始まりとなった「墓碑」の写しや、歴史の教科書でおなじみの「聖フランシスコ・ザビエル画像(写真)」、「マリア十五玄義図」などの絵画、「キリスト磔刑(たっけい)木像」などの彫刻、「木製十字架」や「メダル」などが展示されている。このような遺物が発見された背景には、1573(天正1)年に高槻城主となった高山右近と関係がある。

展示物を見学する参加者
<展示物を見学する参加者>

  摂津国三島郡高山庄(現:豊能町高山)に生まれた右近は、12歳でキリスト教の洗礼を受け、後にキリシタン大名と言われるようになる。その影響で三島地方はキリスト教信者の一大中心地になった。しかし、キリスト教の力が政治に及ぶのを恐れた豊臣秀吉は1587(天正15)年にキリスト教の布教と信仰を禁止させ、後の徳川幕府も「禁教令」を発布し、右近にも信仰を捨てるように命じた。しかし右近は現実の地位や名誉、財産よりも信仰を取ったゆえに、領地も財産も権力も奪われ、最後にはマニラに追放され生涯を閉じた。1873(明治6)年に明治政府がキリスト教の禁止を解くまで、この禁教令は続いた。右近が追放されてから、キリスト教はこの地では消滅したかと思われていたが、1919(大正8)年に千提寺の山中で十字のついた「墓碑」が発見され、それ以降、キリスト教に関する遺物が次々と発見された。信者は、禁教令の中で仏教を信仰しているように見せながら山間部で隠れるように信仰していた。

 史料館を後にし、一行は次に亀岡経由で「広隆寺」に向かった。嵐山の近くともあって、見事に色づいた紅葉が一行の目を楽しませた。

広隆寺

広隆寺【京都市観光文化情報システムWEB】

広隆寺には、仏像だけでも国宝が17体、重要文化財が31体もある。この寺は818年と1150年に火災にあって創建時の諸堂はことごとく失われたが、それにもかかわらず、これだけ多くの仏像が護られてきたことは、奇跡に近い。新霊宝殿と言われる所には50数体の仏像が安置されていて、一行は一度に参拝することができた。

 その中にひときわ美しい、宝冠弥勒の名で親しまれている弥勒菩薩半跏像がある。国宝1号に指定された優美な弥勒像である。弥勒菩薩は56億7000万年後にこの世に現れ、人々を救うという未来仏。半跏像は右手の指を頬に近づけ、まっすぐに下ろした左足に右足首をのせて、衆生の救済方法を思案している姿。聖徳太子が秦河勝に授けた仏像は、この宝冠菩薩とされていて、赤松で造られているため、朝鮮半島からの渡来仏であるといわれている。

 またその隣には、もう一体の国宝の弥勒菩薩半跏像が安置されていている。幾分憂いを含んだ表情をしているため、「泣き弥勒」の名で知られている。この仏像も朝鮮半島からの渡来仏であるとする説がある。『日本書紀』によれば、623年(推古31)7月新羅の使節が来朝して、仏像1体および金塔と舎利を献上とされているが、その証拠として、「これらの献上品のうち仏像は蜂岡寺(広隆寺)に安置し、その他は四天王寺に納めた」と記述されている。

 ツアーの参加者は、「7世紀の聖徳太子の頃は、朝鮮半島との関わりが深かったことを実感した。」「迫害や追放を受けながらも、自らの信仰は何ものにも侵されないとする彼らの不屈の精神を教えられ、私たちもこの精神を相続して、南北統一への決意を新たにした。」と感想を述べた。

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