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黄七福自叙伝「日韓経済協会のこと」/「鎌田詮一というひと」

 

黄七福自叙伝36

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第3章 民団という組織のこと

日韓経済協会のこと

当時、大河内少将の人脈はみな切れていたが、「日韓国民同盟」という反共活動によって、右翼との交流が深まると、政界や財界に太いパイプができた。

中国が共産化されて、自由中国(台湾)に対する経済協力ということで、日華協力会というのがあった。

日本商工会議所の会頭である足立正が、その日華協力会の会合に出席して出てくると、待機していた新聞社が足立正に「韓国はどうなっているか」と質問した。「いやいや、つくることを検討していると」と返答になった。

ということから、結局、私に「つくれ」ということになった。

本部は東京で、呼びかけ人は、日商会頭の足立正、経団連副会長の植村甲五郎らで、小野田セメントの安藤豊禄や秩父セメントの諸井寛一、三菱銀行頭取、三和銀行頭取などが主なメンバーだった。

日韓経済協会の趣意書をもって日本の財界を回ると「李承晩さん、首を縦にふりますかな」と、皮肉っぽくいう人もいた。

一方、韓国側の在日同胞企業は、日本の経済人からみると、経済人に入らないほど規模が小さかった。

大阪では、李熙健(大阪興銀)、朴漢植(大阪商銀)、徐甲虎(阪本紡績)、東京では、李康雨(オデオン座)、モナミの許弼爽(モナミ)、朴龍九(中央土地)、金相主(アイレス写真機) などだった。

そうした在日同胞企業の韓国側経済人と日本側経済人の会議を東京駅八重洲口の工業倶楽部で開いたりした。

ともあれ、一九六〇年(昭和三十五)十二月二十七日、財界代表三十五人を発起人とする設立総会を開催することができ、会長に植村甲午郎が選ばれた。

そして、一九六二年(昭和三十七)九月十七日に植村甲午郎を団長とする経済使節団を派遣し、同年十二月五日には第一次訪韓経済使節団を派遣した。団長は安藤豊祿小野田セメント社長であった。

一九六四年(昭和三十九)十月二十八日には安西正夫昭和電工社長を団長とする第二次訪韓経済使節団を派遣し、翌年四月十四日には土光敏夫石川島播磨重工業会長を団長に第三次訪韓経済使節団を派遣した。

日本商工会議所に三宅英一という人がいた。毎日新聞社の記者で、編集局次長あたりまで昇進したが、転身して足立正の秘書をやっていた。家が千駄ヶ谷で、何かあると、その人にしょっちゅう相談した。

すると、

「松本さん、これは、こうやで、ああやで」と、手取り、足取り教えてくれた。その頃に私の通名は「松本」だった。

私は通名を何回も変えた。松村と名乗った時もあった。

名前は大切なもので、黄七福という本当の名前があったから、その名前は大切にしたが、通名は日本人に化けるためのものだったから、その時に応じて変えた。松本という通名は、その頃からのものだった。

NHKのアナウンサーに三宅民夫というのがいるが、三宅英一さんに顔がそっくりだから、昔、懐かしいよしみで、一度訪ねて行きたい気持だ。

 

鎌田詮一というひと

元陸軍中将の鎌田詮一が、駐韓米軍のハーチ中将の招待を受けて、韓国へ行くことになった。

ハーチ中将が、一九六一年(昭和三十六)七月二十八日付で、鎌田詮一に宛てた書簡は次のようなものだった。

「余は、貴下の友、パーマー大将より、貴下が信頼深いことを聞いて、大変嬉しく思っております。日韓両国のために、貴下が来韓した節は、朴最高議長並に、宋首相と会談し、両国の友好を推進することを期待します。貴下と韓国に於て、親しく食事しながら、懇談する機会を希望し、また、余が、訪日するようになったならば、貴下の都合のよいときに、必ず訪問します」

鎌田詮一は、アメリカにも留学し、マッカーサーの知遇を得るほどの親米派の軍人で、そのため戦時中は冷遇された。

敗戦後、マッカッサーが進駐するときに迎えに出て、以後、マッカーサーの占領政策に大きな影響を与え、アメリカの天皇制廃止要求を食い止めるなど、日本の戦後処理を有利に導いた影の功労者であった。

そのことは、あまり知られていないが、山田秀三郎著の『敗戦時の裏面秘録 罪悪と栄光』(大日本皇道会総本部発行)に詳しく収録されている。

以下は、その抜粋である。

 

◇鎌田大佐が、陸軍省交通課長時代に、時の陸軍大臣、東条英機大将に、「アメリカ軍は、科学機械兵器に勝れ、物量は日本の数十倍である。それを私はこの目で見て知っている。過小評価することは危険である。北支で兵を、とどめるべきであり、あくなき侵略は無謀である」ことを、率直に進言して、逆鱗に触れた。そして、南支の連隊長に左遷された。

◇工兵大尉のとき、陸軍の元老、雷親父の異名ある上原元帥に見出された。その信頼恩寵によって、アメリカに留学した。

そして、光輝ある工兵第一連隊に、大隊長として入隊した。

奇縁―マッカーサー将軍は、同連隊に勤務したことがある。その因縁によって、満洲事変の終幕当時、日本参謀本部の密命を帯びて、米軍の最高権威者たるマ参謀総長に、秘密の会見をすることができた。

◇日本進駐に当り、日本軍人中に、真の武士道精華を身につけている人物が存在するであろうか―脳裡に閃いた唯一人の日本軍人、それは、フォルト・デュボン工兵連隊に於て、大隊長として勤務したことがあるカマダ・センイチのことであった。多年に亘る日・米交戦状態のため、彼の消息は全く知らない。(中略) マ元帥は、カマダ・センイチの安否を密かにただした。

◇米軍の最高権威者の口から、鎌田詮一氏の名前を洩らされて、意外なことに、日本側一行は、愕いた。「余は彼を、よく知っている」

マ元帥の一言は、千金の重みであった。軍使一行が、日本に帰着すると同時に、にわかに、鎌田詮一中将の名が、大きくクローズアップされ出した。

◇鎌田詮一中将は、陸軍の元老、上原元帥に、その人物を買われて、少佐時代に渡米し、米軍連隊に勤務した経験を持っている。

当時の米軍参謀総長マ大将とも知っているということである。今、国難の重大時に際し、陸大出身如何を云々すべきときではない。外交折渉上、米軍に知己があることは、百万の味方に匹敵する。

◇米軍先遣部隊の接伴委員長は有末精三中将、副委員長は鎌田詮一中将と、政府・軍部・全員一致のもとに、快よく決定することとなった。その日、八月二十三日は、鎌田詮一氏の誕生日であり、そして奇しくも、外地より五ヶ年ぶりで、日本内地に帰還したその日である。

◇「おゝ! ジェネラル・カマダ! 生きていたのか、よかった、よかった」と、叫びながら、鎌田中将に抱きついて、背中を叩くのであった。

今の今まで、眼を鋭くし、無言の表情であった(米先遣隊長) テンチ大佐の、余りにも打って変った歓喜の声―なみいる委員達は、唖然として驚きの日を見張った。正に奇遇―日本 の将来にとっては、この奇蹟の会見は天佑というべきであろう。

◇マ参謀総長と鎌田中将との秘密会見の内容を、田中武官に打ちあけた。田中武官は嬉し君を流し「神州不滅―日本躍進の好機到る」と、マ将軍の深い理解と寛容に感激した。同時に鎌田中将の陰の偉功を讃え、心から感謝した。

◇「日本の統治には、天皇の威信を尊重理解し、これを活用することが、大乗的施策である」ことを………センイチ・カマタの懇請を認容し、大統領指令の苛烈な布告を、当分、棚上げにすることを、マ元帥は決意した。

一時は、大統領の感情をそこねるかも知れない。しかし、これとても、時を要する、いずれの日には、必ず、日本を温情的に育成し、東亜諸国の、共産化を防ぐ対策を講じたことについては、アメリカ自国の利益となることを、理解するに至るであろう。

◇私欲、権勢欲のない鎌田詮一氏は、決してGHQの権力に甘えて、これを利用しようなどとは、少しも考えなかった。 ―この天衣無縫がまた、GHQ将官の信頼を確固たるものとした原因でもある。詮一氏が、ひたすら願うものは、皇統連綿世界唯一の天皇制の護持であった。

米軍占領下の日本の現状に於て、皇室安泰のために、陰の人物として、それのみに、最善を尽す心境に徹していた。無欲、恬淡たるが故に、横浜連絡機関部の鎌田邸には、常に門前市をなし、GHQおよび、憲兵司令部に対する運動の人物で、応接にいとまもない有様であった。

中には相当な人物が、大闇で巨利を博し、憲兵に追われて、逃げ込むものもあった。こういうときは、温情な慶子夫人が、常に憲兵司令部に赴くありさまで、夫人の日常は多忙を極めた。

 

この本には、「東条英機は人間じゃないから、ニューヨークの動物園につないで見世物にしろ」と、そういうことも書かれている。

鎌田詮一は、李王殿下と陸士の同期だった。李王殿下は、角力が好きだったが、取り組みをすると年がら年中負けていたと笑っていた。

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