記事一覧

続「数学と文学と善悪の問題について」

 

 われわれは科学というと、理性的で数字で示されるもので、感情的な分野である芸術とは水と油のように相いれないものと考えがちだ。

 実際、大学受験の際も、文系と理系というふうに両者を区別して、両者を対照的なものと思い込んでいる。文系志向の者は、おおよそ数学が苦手で、科学的な思考や実験の多い理系を敬遠し、そのゆえに比較的に数学とは関係のない文系を選択する。

 文系ならば、七面倒くさい数式や幾何学的な無味乾燥で、面白みのない分野から解放され、青春時代を楽しむことができる学生生活を謳歌できると考えるからである。

 かくいう私もその一人だが、数学が数字と抽象的な概念で支配された世界と誤解していた面があり、それは今でも続いているところがあるが、最近、そうではなくて、数学など科学的な思考が重要であることを感じるようになった。

 たとえば、感情というものは、衝動的なものであるがゆえに、コントロールすることが難しい。

 相手に感情をぶつけても、かえって反発をされるといっていい。

 それだけでは、人の感情や知性、心の中に入り込むことはできない。高度な表現、形式、技法というものが外枠として必要となる。

 感情の分野と思われがちな芸術も、基本的にはものを見たり感じたり時に作者の心の中に生まれる感情の爆発(岡本太郎的に言えば)なのだが、爆発しただけでは、人を感動させたりすることは出来ないのである。

 その爆発をいかに表現として昇華し、芸術的な表現として作り上げるのか、そうしたプロセスが創作過程であり、そこには数学的な思考や構成が求められるといっていい。

 芸術作品を家の建築を例とすれば、家を建てるための設計図、骨組み、外枠を成す柱の骨組みのようなものと考えればいいかもしれない。

 そこに快適に住むためには、堅固で数学的な思考で作られた設計図が必要であり、まさに数式計算などが重量を支える柱の強度などにかかわってくる。

 その基本的な構造の上に、芸術が建てられなければ、中身が骨のないものとなって崩壊しまうだろう。

 もちろん、無意識にこうしたことを意識しないままに、計算して、科学的な思考を媒介していないような作品を生み出す作家や画家もいるだろう。

 だが、それは意識していないということであって、作品を生み出すために数学的な思考をまったくしていなというわけではない。

 これは絵画をみればよく理解できるかもしれない。

 絵画における革命は、遠近法の発見であるが、この背景にあるのは、科学的な思考による自然界の物理的な法則の発見からである。

 近くのものが大きく見え、遠くのものが小さく見えるという、現代人にとっては、当たり前の常識も、ルネサンス以前の世界では存在していない思考だった。

 中世の人々の頭を支配していたのは、キリスト教的世界観、天地創造をした神の支配する世界の秩序であり、宇宙大系だった。

 自然はその神の造りたもうた被造物であるがゆえに、自然の風物の価値は、外側に見えるものから判断されたものではなく、神学的な価値観から見えるものだった。

 神の存在が大きく占め、風景はその支配下にあるもので、そのような観念からは人の眼によってものが大きく見えたり、小さく見えるということは宗教画家にとって意味がない興味のないことだった。

 そこにいかに神の栄光とイエスの勝利を描くことが主体だったのだ。

 ルネサンス以前の中世絵画、宗教絵画と呼ばれるものは、神の神聖性やイエスの崇高性を表すための視覚により讃美歌であり信仰告白であったので、遠近法などという、人間中心主義の思考から生まれた技法とはかけ離れていたのである。

 遠近法などに見られる科学的な思考は、自然界を相対的に見る思考、要するに世俗化から生まれたといっていいのである。

 そして、この技法が進んでいくと、やがて、人間中心主義の芸術観、破壊と戦乱、倫理の崩壊した個人主義的な欲望が跳梁する社会への幻滅と人間とは所詮そうした獣が進化したものに過ぎないという唯物的な人間観が生まれ、そうした思想の結晶である芸術が誕生する。

 数学者の岡潔がピカソの芸術を無明の芸術、人間の悪を露出した作品であると看破したのも、そうした芸術史の流れを見ているからだろう。

 ピカソにとって、芸術とはあらゆる権威主義に対する抵抗であり破壊であり、みずからの自我を発揮する手段でもあったのだ。

 しかし、その芸術は単なる自我の発露、自己肯定の感情から生まれたものではなく、根底にデッサンの確かな計算の上に構築されたものであり、感情の単なる爆発や暴発で生まれたわけではない。

 そこには数学的な思考、科学的な構築へのきわめて強靭な意思がある。

 ちなみに、「芸術は爆発である」といった岡本太郎にしても、感情の放恣な爆発・暴発を意味している(ハプニング的な演出を狙った現代芸術の手法)わけではないことを知らなければならない。

 既存の社会とともに同伴して来た芸術の枠組みを超える爆発的なエネルギーの発露、その新創造のエネルギーを「爆発」といったのであって、暴発的な偶然のパフォーマンスを意味したわけではないのである。

 そこには、芸術的な技法や思考を基礎として学んでマスターした岡本太郎の、既存の芸術観を打倒する叫びであり、宣言であったということができよう。

 常に芸術が前の芸術を否定して超えようとするのは、その背景にある人間主義、相対主義があるからだといっていいかもしれない。

 人間主体の芸術がやがて、どのような姿をたどっていくのか。それは現代社会の趨勢と深いかかわりがある。

 今後、世界が戦争と破壊の世紀、倫理の崩壊が続くならば、芸術もその鏡のようにやせ細り、破壊され、無秩序なものとなるだろう。

 そして、その表現において、数学的科学的な思考は、秩序破壊のための手段になってしまう可能性がある。

 現代芸術の人の共感を拒絶るような、心を破壊するような反倫理性に満ちているかぎり、未来の人類社会に希望に満ちた芸術を思い描くことはできない。

 改めて、芸術の再建、すなわち数学と芸術の調和、それは宗教と科学の調和を意味していると思うが、そのような芸術運動の到来を待つほかはない。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

 

関連記事

コメントは利用できません。