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神に魅入られたシャーマン

 

神に魅入られたシャーマン

 民俗学者の谷川健一に、『神に追われて』(2000年、新潮社)という本がある。これは、神に魅入られた人々(沖縄のシャーマン、ユタなど)の聞き書きをもとにした小説スタイルのノンフィクション。

 どうして予言者やシャーマンは、神の言葉を伝える職業(役割)を引き受けるのか、という疑問を常々感じていたが、この本をひもとくことで、その一端を理解することができた。

 すなわち、神の言葉をやり取りするシャーマンたちは、みずから願ってその神と人との取次をするのではなく、神から選ばれて、その役割を引き受けざるを得ないように追いつめられてしまうということである。

 そのことは、表紙の見返しの部分にある内容を要約した宣伝文句でも記されている。

 「神に魅入られた時、人は天国を約束されるのではなく、この世にあって地獄を見る。神に追われ、憑かれた人たちの数奇な宗教体験」

 「神に追われる」とは、どういうことなのか。

 谷川は、1969年、沖縄の八重山を訪れ、そこで初めてシャーマンであるユタに出会う。興味を感じた谷川は、そこでそのユタにいくつかの会話を交わした。

 その中で、印象的だったのは、谷川の質問「神とは一体何者か」に対して、ユタが答えた内容だったという。

 ユタは、次のように答えた。

 「御嶽(八重山ではオン、宮古や沖縄本島ではウタキと呼ぶ)の神は、それぞれの集落の祖先、それもりっぱな人をまつったものである。神さまは人間がなったので、別の神さまがあるわけではない」

 この答を聞くと、沖縄のユタたちの「神」というのは、日本の神道の神と同じような先祖神であることがわかる。

 日本の主神的存在であるアマテラス大神にしても、天皇家の先祖神という性質を持っていることも、そのことを示しているといっていい。

 その意味では、西洋の神、ゴッドとは違う存在とみることもできる。西洋の神は、人間的な存在ではなく、それを超越した存在と考えられてきたからだ。

 次に谷川は神の姿について聞く。どのような格好をしているのか、と。

 「神はぼろぼろの衣裳をして、乞食同然のすがたで現われる。それは人を試すためのものである」

 神が乞食同然の姿をしているとは、どういうことか。

 ただ、わかることは、先祖神であるならば、子孫が自分を祭ってくれなければ、先祖神はぼろぼろの衣裳をまとうしかない、落魄(らくはく)とした存在に堕ちてしまうということだろうか。

 谷川は、このユタの答えに対して、乞食の姿をした神というのは、世界の多くの神話や民話に共通した性質だという。

 谷川は具体的にどのような神話があるかを記していないが、それは谷川が神がなぜぼろぼろの姿をしているかということよりも、その姿で「人を試す」という観点に注目しているからだ。

 要するに、神がぼろぼろな姿でいるのは、それによって人を試すために仮装しているという視点である。

 全能ともいうべき権能を持つ神が、ぼろぼろなはずがない、そこにはそうしている意味があるからだ、そして、それは神の外見によって人が惑わされているかどうかを試すためであるということ。

 神への信仰が上辺のものであるか、心底敬虔な思いで信仰しているのか、そうした試験をしている、というのである。

 実際に、谷川が記しているのは、『風土記』の一つ、「常陸国風土記」にある「御祖(みおや)の神を泊めなかった富士山が罰せられ、歓待した筑波の山が祝福を受ける」という記述である。

 これは神々の祖である主神がぼろぼろの姿をしていたために、富士山と筑波山の対応が異なっていた話のことである。

 富士山は、重要な神事をしているので主神の願いを断り(外見では主神とわからなかったのだろう)筑波山はそれに対して歓待したという違い(信仰の深さ)によって主神の審判が降った。

 その故に、富士山は人の住まない死の山になり、筑波山は人が通う山になったという地名由来神話の一つである。

 しかし、本当に、人を試すために神は仮装し、ぼろぼろの姿をしているのだろうか。

 いや、ぼろぼろの姿をしていなければならないのだろうか。

 そこに、神の存在のとらえ方の違いがあるといっていいかもしれない。

 そこに、私は神という存在のとらえ方の谷川の民俗学者の限界というべきもの、科学的客観的なアプローチが宗教的世界を追求するにあたっての、学者の良心の限界なのではないか、という気がする。

 宗教的な世界を知るためには、どうした方法が良いのか、それについては、さまざまなアプローチが考えられる。

 その現象を外側から観察し、その人の身体的現象として、神経性幻覚や脳が生み出した錯覚、思い込みという脳科学的なアプローチである。

 基本的にこうした見方からは、神を見たり聞いたりする人は「病気」にかかっているとしか考えられなくなる。

 そうした「病気」にかかっている人の話をまともに受け止めてしまうと、精神的に混乱してしまうから、それを幻覚症状として処理し、薬による治療、あるいは重症ならば入院という措置を取る。

 その意味で、谷川のルポルタージュが小説のようになってしまったのは、彼が事の本質を病例としてみるのではなく、そこに何らかの心霊的な意義や意味があるのではないか、と考えたからだろう。

 ユタの話は、外側から見ては決して理解できない内容だったので、そのライフヒストリーとして生涯をたどりながら、判断を交えずに記していくという方法が一番、事の本質を表す事ができる。

 そう判断したからだろう。

 理性的に判断できないものは、そのまま記していくしかない。事実そのものによって語らせよ。

 それによって、物事の外郭ではなく、本質の一端を浮き彫りにすることができる。それもまたルポルタージュの方法の一つである。

 いずれにしても、このから浮かび上がるのは、「神に追われて」ユタになるしかなかった女性の人生であり、神という存在の不思議さである。

 なぜ神は人を選び、シャーマンとして育て、自分の言葉を伝えたいと思うのだろうか。不可思議な話ではあるが、そこに神と人の関係の謎が存在しているような気がする(この項目続く)。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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