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日本人と宗教の受容 キリスト教への一視点

 

 日本はお隣の国、韓国に比べてキリスト教徒の人口が極めて少ない。

 もともとキリスト教徒が少なかったといえば、そうではない。

 日本の歴史上、ある時代、キリスト教は社会全体を動かすことができるほどの勢力をもっていた時期がある。

 日本は、戦国時代、キリスト教の布教によって一時、多くの戦国大名が帰依したことがある。

 その多くは宗教的な回心というよりも、自分たちの領土の繁栄を願った西洋との貿易をたやすくするための方便で、西洋の武器などを輸入しようとした政治的なものを根底にした戦略的なものが中心だった。

 そのために、時の権力者(豊臣秀吉や徳川家康)の弾圧によって、高山右近などの一部の例外を除いて、多くのキリシタン大名が信仰を捨て、従来の仏教に信仰を変えた。

 その転向は、その後の日本人のキリスト教に対する邪教視や宗教自身に対するマイナス的な意識を植え付け、その影響は現在までに及んでいる。

 日本人が宗教を信じているかどうかを尋ねられた場合、「無宗教」ということを基本的に述べるのは、歴史的に積み重ねられてきた宗教蔑視(特にキリスト教に対して)や仏教信仰に見られるように習俗として形骸化してきた為政者による宗教政策の影響や先入観があるからで、個人の信仰というものが育たなかった背景がある。

 宗教とは、個人の帰依するものというよりも、冠婚葬祭や正月などの習俗と同化したものと思い込んでいるといっていいかもしれない。

 特に、宗教が習俗化したのは、江戸時代における檀家制度のような宗教政策が影を落としているといっていい。

 徳川家康は宗教の違いによって、自分の部下からも背かれ、それをまとめ上げるために苦労した過去があったので、宗教政策には注意を払い、その政治的な力をそぎ、そのエネルギーが暴発することを危険視した。

 基本的に政治的に反逆できないように懐柔政策を取り、それを統制するために新興宗教を禁教し、それに反して仏教の伝統的な既成宗教・宗派を認めた。

 しかも、その公認した既成宗教にしても、従来の教えを変えるような宗教改革や教義の変更を禁止した。

 そこから政府を転覆するような新しい宗教運動やカリスマ的な新指導者が生まれないとも限らないからである。

 その政策によって弾圧されたのが、江戸時代、日蓮宗の異端とされた「不受不施派」などである。

 「不受不施派」とは、ウィキペディアでは、「日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法などをしない」とある。

 日本人は、信仰によって仏教の寺院に所属するのではなく、キリスト教徒ではないことを証明するために、個人的信仰とは関係なく、寺院に所属するということが長年続いた。

 それが当たり前となったために、宗教は信じるものではなく所属するもの、それも家や親族や村などの集団が参加する習俗的なものとなったのである。

 個人の自覚を促し、組織よりも個人的に天(神)に信仰を捧げるキリスト教は、その意味で、政治的にも思想的にも危険なものであり、政権がキリスト教弾圧に走ったのは、そうした組織よりも個人の信仰を認めれば、組織の瓦解を招くからである。

 その意味では、日本にはキリスト教は根付かなかったが、それが再び日本の国に入ってきたのが、明治維新の文明開化の時代である。

 このときは、西洋列強による侵略の危機が、西洋文明の近代化思想の装いでやってきたために、それをいかに食い止め富国強兵を果たすかという為政者側の思惑で、「和魂洋才」という日本的な対処をした。

 すなわち、西洋文明の技術革新・政府組織・学問などの知的分野のものは盛んに受け入れ、留学生を派遣して学ばせたが、西洋文明の根底をなしているキリスト教だけは受け入れないように、それに代わるものとして神道を宗教政策の基本に据えた。

 キリスト教というものに対する長年の政策による遺伝子レベルでの拒否反応がその根底にあったといっていいかもしれない。

 もう一つは、日本が外来のものを受け入れる場合、四方を海に囲まれた島国であったために、ダイレクトに受け入れるのではなく、ワンクッションを置いて受け入れるという側面があったことも大きい。

 これは伝統的な日本的構造であり、山本七平などは、この日本独特の精神構造を、「受容と排除」という言葉で言い表している。

 古来から日本は遣隋使や遣唐使の頃、あるいはそれ以前から、思想も宗教も、技術なども、取捨選択しながら輸入した。

 大陸であれば、その外来思想や宗教は、ワンクッションもなく、そのままそれをもたらす人々によって、国民がそのまま外来思想を受容してしまう面がある。それこそ外来思想の受容が反体制運動に転じる可能性があった。

 それが革命思想となって、時の政権を転覆する革命となる可能性があることは、中国の歴史における反政府運動の原動力となった宗教運動(黄巾の乱などの背景にはミロク待望の宗教的メシアニズムがある)をみればいい。

 さまざまな民衆の不平不満の受け皿となって、政府転覆のエネルギーを生み出してきたのが宗教であり、それは宗教が個人の救済を中心として、集団化し、圧力団体となって社会改革、地上の福地化を目指してきたからである。

 その意味では、宗教は個人救済だけにとどまるのではなく、最終的にはどうしても、民族国家レベルの社会改革を目指すのである。

 個人の救いの段階では、結局、その個人だけの救済に終わり、家族や氏族、民族というものは疎外されてしまうからである。

 救いとは、個人の次元で終わらない。

 そういう趣旨で、個人的救済の「悟り」を求めた仏教も、釈迦の教えを拡大し、集団的な救いへのレベルアップをしていく。

 それが個人の救済を今もなお目指す小乗仏教(現在では上座部仏教と呼ぶ)から、全体の救済を願った大乗仏教の誕生であり、角逐の末に、その両者の適度な対峙と併存となっていくのである。

 浄土真宗の親鸞も、自分には弟子も子もいないと、個人の救済・悟りを軸としたが、その後継者は様々な争論や対立、分裂などを経て、血統を中心とした宗教集団として存続し発展していく道をたどる。

 個人の悟りを中心とする禅宗も、出家して悟るという修行を寺院で一定期間生活することで、教義を学び悟るという学校機関のようにシステム化していく。

 同様に、キリスト教もイエスの救いを拡大するために、修道院や教会を中心として国家社会に影響力を与える組織を形作っていくようになっていった。

 それは本質的には、全体の救済だけではなく、個人の人生をも良くするためのプロセスであったといっていいのである。

 そのような歴史を振り返ってみると、改めて現代という時代において、宗教の意味と意義を問い直したいという思いに駆られる。

  (フリーライター・福嶋由紀夫)

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