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愁思 葉っぱのフレディの死生観

 

 街を歩いていると、風の冷たさに肌が引きまるような感覚がする。空は平凡だが、抜けるような青空で、雲もどこか水気を失い質量が軽い感じだ。

 そろそろ落葉のシーズンと思っていたが、紅葉もあまり見ていないし、なかなかはらはらと落下する枯れ葉にお目にかからない。

 とはいえ、路上には少しばかりの枯れ葉とどんぐりの実が散らばっている。子供のころは、どんぐりを見つけると、その大きなものを必死に探して集めたものだが、大人になった今はそうした気持ちにはなれない。

 ただ、靴の下でつぶれるどんぐりの実の音を聞くと、わずかばかり心の痛むのを感じてしまう。植物の実というのは、次の世代を生むための準備をする種でもあり、足で踏みつけることは、そうした命の連鎖を断っている気がするからだ。

 といっても、どんぐりの実は足の踏み場もないほど散らばっているので、踏まないで歩くということもできない。

 風の冷たさと命を踏んでいる痛みで、少しばかり憂鬱になったとき、頬をかすめて何かが目の前に落ちた。

 枯れ葉だった。枯れ葉は重力がない布切れのように、すうと敷石の上に舞い降りた。

 見上げると、すらりとした樹木の上には、ゆらゆらと風にゆすぶられて、今にも落ちそうな葉が見えた。

 その瞬間、昔読んだ絵本のことが思い出された。哲学者が子供のために書いた絵本『葉っぱのフレディ』である。

 この絵本は、やや記憶に頼って思い出すと、秋になって落葉する葉っぱのフレディが、自分の人生を振り返りながら、なぜ親の木から落ちて死んでいかなければならないかを悩み、死を恐れていたとき、同じ葉っぱの友人がその意味を教えてくれたというものだった気がする。

 その言葉によって慰められ、落ち葉となって死ぬのは、無駄ではなく、命の連鎖をつなぐための意味のある行為であることを悟ってフレディは勇気を出して親の木から離れて落ち葉となっていく。

 要するに、葉っぱの春夏秋冬の四季折々の生長を人間の一生にたとえて、誕生から少年、青年、壮年、老年、そして死をいう人間がたどるプロセスを葉っぱのフレディの姿を通して解き明かしたものといっていいだろう。

 絵本というシンプルな物語は、発行された当時、子供向けというよりも、大人が読んでも考えさせられるということで、ベストセラーになったことを覚えている。

 また、タブーとされていた死ということに注視する姿勢が、多くの人々、特に社会の生活に自分自身の生き方を見失っていた世代にとっても、改めて自分を見直すためのきっかけになったといっていい。

 シンプルだが、そこに、人間存在の生きる意味、真実があることを知らされるということが、難しい哲学ではなく、すぐ読める絵本で教えられるというのは、まさに老いては子に従え、子に教えられるといった気持ちになる。

 まして、超高齢化社会に突入した日本は、今後、多死社会を迎え、どうしても、死というものを真摯に受け止め、どう晩年を生きるか、どう死ぬかという問題が付きまとってくるのである。

 葉っぱのフレディの人生は、私やあなたの今後直面しなければならない問題で、他人事ではない。

 秋を迎えた今、自然の姿を見て、どのように生きていかなければならないか、自分だけではなく、どのように社会に貢献し、平和な世界をつくるためにしなければならないことを考えなければならない。

 それが人生の秋を迎えての実りある次の人生(たとえば死後の生、霊界での人生)への跳躍であり、また向き合うべき真実であると思う。

 これは宗教的な世界になってしまうので、信じるかどうかは別として、そうした生の本質を見つめていくことは必要だろう。

 死をどのように迎えるかのターミナルケアや看取り看護など、そうした試みが医療現場や民間から生まれてきているのも、人間の生死への本質的な問いかけをしなければならない時代になったということかもしれない。

 かつて文芸評論家の小林秀雄は、戦時期のエッセーの中で、人間というものは生きているうちは、何をしでかすかわからない、不完全な存在で、評価の対象にはならないとして、それに対して、死んだ人間は立派だ、しっかりとしていて、評価の対象として完全である、というようなことを述べている。

 これはもちろん、小林の一種アイロニカルな表現で、人間は死んで棺が覆われないかぎり、確かな評価ができないということを指摘したものである。

 確かに、生きている間は、それまで築いてきた評価を台無しにするような愚行や失敗を犯す可能性がある。善人と思われていたのが、悪辣な犯罪者になってしまうこともある。

 そのようなあやふやな存在の人間は、だが、死んでしまえば、それ以上、不可解な行動や評価を覆すようなことをすることができないので、初めて正しく評価していくことができる。

 その意味では、小林の指摘は間違ってはいないのだが、どこか釈然としない感じがするのも確かである。

 その小林は、その発言を締めくくるように、次のように述べている。

 「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。…其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(「無常という事」)

 死んだときに、初めて人間になる、それまでは動物に過ぎない、という小林の逆説的な表現は、直感的過ぎてふつう理解できないような独特な文学表現ということになる。

 だが、この小林の表現には、人間の個というものの存在が、人類全体の生の継続、すなわち血統による種の相続と遺伝、葉っぱのフレディのように、死は個の死であるとともに、全体の生への命の連鎖の一環であるということを示しているといっていい。

 考えてみれば、死なない人間はいない。

 植物が春夏秋冬を通して、種から芽を出し、茎と伸ばし、葉を繁らせ、そして、花を咲かせ、実を結び生涯を終えるサイクルのように、人間が死ぬということも自然の摂理の中では、変わらないプロセスである。

 けれども、植物が種となって、春を迎えて新生復活するように、人間もまた、死から新たな生への旅立ちを迎えるということを考えるべき時期に来ているのかもしれないと思うのである。

 葉っぱのフレディのことを思いながら、そんなことを考えていると、樹上から枯れ葉が次から次へと落下してきた。

 もう冬は近いのだろう。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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