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『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』 (4) 通信使の韓国内旅程

 朝鮮通信使の高官たちは、漢城(現ソウル)の王宮で、国王から励ましの言葉をもらい、日本へ船出する釜山へと向かった。通信使は総数にして300人から500人余り。ただ、漢城(現ソウル)から陸路、釜山に向かう一行は100人ほどだった。残る300人から400人の一行は釜山に直接、集合した。その人たちは、船将、ト船将、熟手、挌軍など身分の低い人たちだった。
 通信使の日程をみると、漢城から釜山まで、約500キロを20日間かけて移動する。途中、移動を留まったことを勘案すると、1日平均23キロ進む。1日歩む距離で最も長いのは、慶州―蔚山、最も短いのは漢城―良才、聞慶―幽谷、東萊―釜山の各区間である。一般的な経路は、次の通りである。

漢城―漢江―良才駅 (8キロ)
良才駅―龍仁 (20キロ)
龍仁―陽智―竹山 (28キロ)
竹山―無極―崇善 (24キロ)
崇善―忠州 (20キロ)
忠州―安保 (24キロ)
安保―鳥嶺―聞慶 (20キロ)
聞慶―新元站―獣炭―幽谷駅 (12キロ)
幽谷駅―龍宮―體泉 (18キロ)
酸泉―豊産官―安東 (32キロ)
安東―日直―義城 (28キロ)
義城―義興―新寧 (24キロ)
新寧―永川 (16キロ)
永川―毛良―慶州 (32キロ)
慶州―枸漁―蔚山 (40キロ)
蔚山―龍堂倉 (36キロ)
龍堂倉―東菜 (18キロ)
東莱―釜山 (8キロ)

 途中、①忠州②安東③慶州④釜山、で賜宴が催されるのが慣例となっていた。しかし、通信使によっては、それ以外の土地でも盛大な饗宴が開かれた。
 通信使が、慶州や安東を必ず通過しているが、その理由は地方都市として重視されていたからだろう。朝鮮王朝時代、行政区域の面積、戸数及び人口、租税額などを参考に地方官のランクを決めたが、慶州、安東は優遇された。戦略的な要地、名門の本拠地などが要因であったと思われる。周辺の尚州や大邱は比較的、ランクが低かった。
 通信使が宿泊する場所は、各郡の守令との社交も大切な任務だった。慶州や安東では、守令をはじめ、周辺の道主、察訪、兵士などが集まり、通信使を接待した。通信使が行く経路は、人的交流のためにも選択されたのではないだろうか。

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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