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『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』 おわりに

 

おわりに

 朝鮮通信使は広まったのか。対馬で出会った通信使を追っかけて、20年が経つが、いまだに、その思いが離れない。対馬をはじめ、ゆかりのまちでは通信使再現行列を中心に祭りを開き、その名前も浸透している。しかし、沿道を離れると、通信使も馴染みが薄い。その状況を変えるのが、ユネスコ世界の記憶(記憶遺産)登録である。
 日韓関係が険悪になると、朝鮮通信使が脚光を浴びてきた。江戸時代、両国をつないできた平和使節という概念を、強くアピールできるからである。世界記憶遺産に登録されたのも、その精神が響き渡ったからだろう。
 朝鮮通信使が往来した200年間、朝鮮王朝、徳川幕府、その間をつなぐ対馬藩に三者三様の思惑はあったが、日朝の文化、経済的な交流が途絶えることはなかった。それが、東北アジアの平和的秩序を維持するために貢献したことは、否めない事実である。
 とりわけ両国の懸け橋になった対馬藩の努力は大きく、島経済の浮上のために通信使来聘に尽力した。朝鮮外交を家役として勤めてきた対馬藩の意気込みは、現代にもつながり、地域起こしに、国際交流に通信使は大きく役立っている。
 交流人口をどう増やすか。各地で、その取り組みが進む。通信使ゆかりのまちには、大きな歴史遺産「通信使」がある。あるだけでは、ダメである、それをどう活用していくかが大切である。そこで思うことは、「先を読む」こと。 
 一足先に田川市(福岡県)にある山本作兵衛の絵画が、世界記憶遺産になっている。その登録記念として、その登録史料を披露する展覧会が地元や、福岡市内の博物館で開催された。記憶遺産は、観光に有利な世界文化遺産とは違い、史料が中心になる。しかし、それに縛られていてはいけないことを田川市は示す。多彩なプログラムを組んで、遺産の活用を続けている。要は、世界記憶遺産登録後の、流れが大切ということである。その「先を読む」議論はどうなっているのか。
 歴史の教訓として、朝鮮通信使の往来によって、朝鮮の知識人の意識が変わったことが挙げられる。通信使の日本紀行や、彼らが持ち帰った文物が役立った。それを活用して朝鮮の知識人は日本認識を深めていった。
 18世紀後半から19世紀前半にかけて、一部の実学者の間で従来の政治・軍事中心の日本への関心が減少し、代わりに文化への関心が大きくなる。これには17世紀後半ば以来の平穏な東アジア情勢と、華夷観から脱皮して発展していった日本文化に対する関心の増大が関係していた。
 通信使から得られる教訓として、人の、文物の往来がいかに大切であるということ。頻繁な往来は、人のもつ固定観念や偏見を変え、誤解を正し、真の日韓友好に寄与できる。
 国境を超え、お互いを支え合う良好な関係があってこそ、日韓の結びつきは深まっていく。世界記憶遺産登録を契機に、両国の政治状況に左右されない市民交流を進める上からも、通信使の精神に学んでいく機運を醸成していきたい。

 

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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