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『二十一世紀の朝鮮通信使』 総論II

◆1607~1811年、計12回来日

朝鮮通信使は 1607(慶長12)年を皮切りに、1811(文化8)年まで計12回来日した。通信とは「信を通わす」こと。名目は将軍の就任を祝う慶賀使で、国書を交換して両国の信義を確認し合った。ただし、3回目までは回答兼刷還使といって、秀吉軍によって日本に拉致された朝鮮人を連れ戻すことを主目的とした。
通信使一行は漢城の王宮で国王から励ましの言葉を頂いて出発。江戸城での国書交換のため、8カ月から1年2カ月をかけて往復した。使節は、釜山から大坂まで海路。大坂から京都の淀まで川御座船で遡った後、陸路、江戸へと向かった。どこの沿道でも、客館に儒学者、文人、医者、画家などが朝鮮の先進文化を学ぼうと盛んに足を運んだ。

◆許浚の『東医宝鑑』

朝鮮通信使には、2人の医員が帯同し、江戸往復の間、発病した者の治療に当たった。そのほか鍼灸に通じた随行員もいた。日本の医者たちは、彼らから朝鮮の医学を聞けることを楽しみにした。ちなみに 1636(寛永13)年、江戸で幕府の奥医師・野間三竹は医員・ 白土立から、許浚の『東医宝鑑』について会話を交わした。

1682(天和2)年、幕府は通信使に随行する医員2人に加え、良医1名を厳選してほしいという希望を出した。臨床医とは別に基礎医学に通じた医学者の派遣をもとめたのである。それに該当するのは、宮廷医の「内医院正」という高位の医者であった。
朝鮮通信使が来日したとき、医者たちは宿泊先を訪ねて、朝鮮医学について熱心に質問した。大坂に樋口淳叟という医師がいた。彼は朝鮮通信使の一員を診察した経過をまとめた『韓客治験』を残している。それによると、樋口淳夏は 1748(延享5)年、尻無川に 繋留中の朝鮮通信使船まで出向き、病人を診察し、完治させた。そのことで正使、洪啓禧から感謝された。ただ、日本の医師が朝鮮人から余り信用されていない空気を察した樋口淳叟は、「私はあなたの国の『東医宝鑑』によって学んだ。何ぞこれ疑うことあらんや」と糾したという。

『東医宝鑑』の噂を耳にした八代将軍・徳川吉宗は対馬藩に命じて、それを朝鮮から取り寄せて翻訳させ、座右の書として愛読した。中国でも、家庭医学書として愛用されている。
1719(享保4)年に来日した朝鮮通信使の製述官、申維翰の日本紀行『海遊録』には次のように書かれている。
「医学は日本でもっとも崇尚するものである。天皇、関白をはじめ各州太守は、みな医官数人を置いて、稟料をあたることははなはだ厚い。ゆえに、医官はみな富む」

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編) 

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