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黄七福自叙伝03


「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第1章 祖国解放までのこと

三・一独立運動

三・一独立運動は、独立万歳運動ともいわれ、一九一九年三月一日に起こった。現在、三月一日は三・一節という慶祝日に指定されている。

独立運動の様子を描写したとするレリーフがソウル特別市のタプコル公園に作られており、今なお毎年三月一日に同公園に人々が集い独立運動を偲んでいる。

その独立運動は、タプコル公園(当時・パゴダ公園)に三十三名の独立義士が集い、「独立宣言」を読み上げたのがきっかけだった。

これに呼応して一般市民も集まり、やがて熱狂のうちに「独立万歳」と叫び、デモ行動した。同日、時を同じくして平壌でもデモ行動が起こり、瞬く間に朝鮮半島全土に広がり、数ヶ月に渡って展開された。

全国二百十八郡のうち二百十一郡で、当時の朝鮮人口約一千五百万人中約二百万人が参加したとされる。

犠牲者は死者七千五百九人、負傷者一万五千九百六十一人、逮捕者四万六千九百四十八人に達し、日帝軍が放火した家屋七百十五、教会四十七、学校二などが全焼した。

これに対し朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入し弾圧した。その過程でキリスト教徒を教会ごと焼き討ちした提岩里事件などが起きた。

朝鮮総督府によると五百五十三人が死亡し、負傷者は約千人、逮捕者約八千五百人としているにすぎない。

三・一運動は満州、シベリア、上海、アメリカ等世界各地に居住する朝鮮人にも波及した。

間島(満州)では北間島戦闘、青山里大捷(戦)などが発生し、上海に李承晩(アメリカ在住)を大統領、李東輝(ロシア在住)を国務総理とする臨時政府が樹立された。

ロシア・ウラジオストク新韓村では大韓国民議会を組織して、独立宣言文を朗読し、英語、ロシア語、中国語に翻訳してウラジオストク駐在の十二ヶ国領事館に配布した。

アメリカでは徐載弼と李承晩が主導するフィラデルフィア大会が三日間にわたって開催され、抗議決議文を採択して全要路に発送するとともに市街行進して独立を訴えた。

だが、これらの独立運動に先駆けて導火線となった出来事が日本で起こっている。

三・一運動に先立つ一九一九年二月八日、東京基督教青年会館(現・神田YMCA)に六百余名の学生が集まり、李光洙が作成した独立宣言文(二・八宣言)を朗読、日本国会や要路に提出することを採択したが、主謀者二十七人が連行されて大会は終了した。

学生らが配布した独立宣言文は、その後の集会で使われるようになった。二月十九日、大阪・天王寺公園でのデモに発展、二十三名の主謀者が警察に連行された。

この運動が、三・一運動に影響を与えたのである。

三・一運動の後、朝鮮総督府は、東亜日報、朝鮮日報、時代日報等の朝鮮語日刊紙を復刊させるなど、憲兵警察による武断政治から、文治政治に切り替えたが、これ以後も、民族独立運動の弾圧は続き、植民地政策は狡猾に実施された。

そうしたなかで、若い人にも知ってもらいたいことを列挙してみよう。

 

朝鮮総督府

一九一〇年(明治四十三)の日韓併合によって、朝鮮半島を統治するために日本が京城(現在のソウル特別市)の景福宮の敷地内に設置した官庁のことで、初代総督は寺内正毅であった。

風水思想に基づいて造営されていた景福宮(朝鮮王朝の王宮)の正門を撤去し、景福宮の前面をさえぎるようにして敷地内に朝鮮総督府庁舎を建てた。

そのことからもわかるように、朝鮮の文化を否定し日本への同化政策を進める一方、拷問や武力鎮圧により独立運動を厳しく弾圧することが朝鮮総督府の任務であった。

朝鮮総督は天皇に直属し、朝鮮における統帥権、立法権、行政権、司法権を掌握し、広大な権限を行使した。

歴代総督はすべて陸海軍の現役大将であった。日本の利益を最優先とし、満州進出の基礎とすることが至上課題であり、日本人の利益追求に便宜を与えた。

たとえば、総督府は土地所有者の調査を進め、土地は進出した日本人らに供与された。そのため多くの農民が土地を失い、困窮した人々が満州や日本国内、ロシア沿海州などへ移住する結果となった。

また、各地の文化財は日本人らによって海外へ持ち去られ、景福宮のように破壊された文化財も多かった。

その上、日本語教育など同化政策が進められ、そうした一連の過程において、朝鮮人差別が増長され、現在でも根強く残っている。

ところで、景福宮の総面積は四十二万平方メートルで、さまざまな建物三百三十余棟があったが、朝鮮総督府庁舎の建設に際し、ほとんど撤去され、十余棟と石塀が残されただけだった。

景福宮の正門は光化門と称され、一三九五年に朝鮮王朝の太祖李成桂によって建立されたが、壬辰の乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵)の戦火で焼失し、一八六五年に大院君によって再建された。

その光化門に朝鮮建築美を見出した柳宗悦はいたく感動し、朝鮮総督府の意図で光化門が取り壊されると知った時、一九二二年(大正十一)「失われんとする一朝鮮建築の為に」という一文を『改造』九月号に発表した。

「光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕に迫ろうとしている。お前が嘗て此世にいたと言う記憶が、冷たい忘却の中に葬られようとしている。

どうしたらいいのであるか。私は想い惑っている。酷い鑿や無情な槌がお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くないのだ。

(中略)門の前に佇んで仰ぎ見る時、誰もその威力ある美を否み得るものはないのだ。併し今お前を死から救おうとする者は反逆の罪に問われるのだ。(中略)おお、光化門よ、光化門よ、雄大なる哉改の姿。今から凡そ五十有余年の昔、汝が王国の力強い摂政大院君が、彼の躊躇を許さぬ意志によって、王宮を守れよとて、南面する素敵な場所に汝の礎を動くなと固めたのである。

此処に朝鮮があるとばかりにもの云う諸々の建築が前面の左右に連ねられ、広大な都大路を直線に、漢城を守る崇礼門と遥かに呼応し、北は北岳に飾られ南は南山に対し、皇門はその威厳ある位置を泰然と占めているのである」

この一文が、日本の無謀を語って余りある。柳宗悦の反対が効を奏し、光化門は破壊をまぬがれて、景福宮の東側、建春門の北に移された。

しかしこの悲運の門は、そのままの姿で今日の正しい位置に帰ってきたわけではない。東側に移されてから約三十年の後、朝鮮動乱の戦火を全身に浴びたのだ。

旧位置へ戻しての再建が計画され、古い記録や写真などによって復元が完成したのは一九六八年(昭和四十三)であった。「光化門」というハングル文字は、当時の朴正熙大統領の筆跡である。


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