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『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』 (3) 日朝の「架け橋」に


(3) 日朝の「架け橋」に

 豊臣秀吉の朝鮮侵略で断絶した国交が、徳川家康の要請を受けた対馬藩の奮闘で修復され、1607(宣祖40、慶長12)年を皮切りに1811(純祖11、文化8)年まで、朝鮮通信使は計12回来日した。名目は将軍の就任を祝う慶賀使で、国書を交換して両国の信義を確認し合った。ただし、3回目までは「回答兼刷還使」といい、4回目以降を「通信使」と称した。3回目までは、日本に拉致・連行された朝鮮人を連れ帰ることを主目的とした。通信使は、漢城の王宮で国王から励ましの言葉を頂いて出発。江戸城での国書交換のため、8カ月から1年余りをかけて往復した。釜山から大坂まで海路。大坂から京都の淀まで川御座船で遡った後、陸路、江戸へと向かった。通信使一行は、三使(正使、副使、従事官)を筆頭に300人から500余人。国内28分野から一流の人材を抜擢した。

 江戸時代は鎖国といわれるが、実際は海外に向かって四つの窓口(琉球、出島、対馬、松前)をもち、朝鮮と琉球とは通信の関係を保った。江戸には、朝鮮通信使、琉球使節、出島の阿蘭陀カピタンが参府し、将軍に海外の情報をもたらした。なかでも、朝鮮通信使には、それを迎えるため幕府の年間予算を越える巨額(100万両)を投入した。沿道の各藩の負担も甚大であった。接待をする沿道の各藩で、10万石以下の藩には助成金を出した。10万石以上の藩は自前で供応に当たった。

 通信使は異文化に接触できる江戸時代最大の外交イベントで、大坂や京都、江戸の版元は通信使が来る前から一行の名前、人となりを紹介した冊子をつくって売った。通信使が行く沿道には、人垣が出来た。異国の風俗、音楽、舞踊を、縁日を楽しむかのように民衆は鑑賞した。
 その影響は牛窓の唐子踊り(岡山県瀬戸内市)、分部町や東玉垣町(いずれも三重県)の唐人踊りなど祭礼にも取り入れられ、現在も継承されている。興津の清見寺(静岡県)、牛窓の本蓮寺(岡山県瀬戸内市)に残る多くの書画を見ると、当時の朝鮮ブームが手にとるようにわかる。
 しかし、異国の文化を楽しむ民衆とは別に、労働奉仕や荷役運搬に借り出される人たちがいた。

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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